こんにちは、蒼生です。
なんか某インフルエンサーがオープンマリッジとか言って大炎上してて思ったので書きます。そのインフルエンサーは名前位しか知らないんですが、炎上しすぎて全然興味ない自分の視界にまで入ってきてるのでだいぶその界隈では炎上してるんだと思います。そもそも、なんで30超えて大切な人の人権を棄損して自分の株まで暴落させて、身を削ってネタ作りしてんのかよくわからないんですが、炎上してるのは多くの人の中に強い順法意識があるからじゃないかと思います。
公序良俗に反する同意は無効になるという前提を知らない30代
たまに死にたい人が誰かに殺してくれと頼んで、その殺した人が殺人罪に問われる「嘱託殺人」が問題になります。二人の間には明確な同意があり、証拠もありますが、それでも殺した人は罪に問われます。(ふつうの殺人罪よりは軽いが、それでも無罪にはならない)
これが公序良俗に反する同意は、いかなるものであっても排除されるという原則です。
オープンマリッジは刑法には問われませんが、不貞行為として扱われて仮にどちらかが不貞行為で訴えたら、たぶん慰謝料を請求されると思います。(弁護士によっては同意がなかったと争えるし、証拠を出してもたぶん減額位にしかならない)
日本では重婚を禁止してるので、ハーレムを作りたかったらイスラム教国家に行けばいいと思います。重婚を禁止したり、不貞行為を禁止するのは、日本が「家」という単位を長年とても大切に考えてきたからで、その中の平和や権利関係(主に子供)をとても重視しているからです。不貞行為等で子供ができたら、その子供がかなり不健全で危ない状態になるので先に不貞行為を罰する対象にしています。
だから本人同士で同意があったから云々は、子供の戯言でしかなく、順法意識が高い人達がそのインフルエンサーに「30越えてガキみたいなこといってんじゃねーよ!」と批判しているのだと思います。
つまり炎上してるのは至極当然だという事です。30過ぎて痛いことを言っているインフルエンサーの言動を視聴者が参考にして「新たな馬鹿」が現れないことを、たぶん多くの人が願っています。
国家や社会は様々なレイヤーで秩序を作り出している
ハーレムとか浮気とか、男性の一定数は、これは本能に基づくものであり仕方がないと無理な強弁をしますが、それなら国家も法律もいらないし、猿の国を肯定するような話です。
人間が猿と違うのは、脳が発達して本能的欲求を理性で制御できるからです。本能に負けて反社会的な事をするのを仕方がないと肯定するのは「猿宣言」してるのと同じなので、あまり賢い主張とは思えません。
基本的に社会は、構成員の反社会的な本能をいかにコントロールするかという視点でできています。
秩序を作り出すためには、猿的な本能を「どうやって」「どの程度」コントロールするかという視点が必要になってきます。そのコントロールの幅や種類は、国によって違います。だからハーレムを望むなら、日本を出て、イスラム教国家に行ってそこで暮らせばいいと思います。
歴史的には宗教が最初、その役割を担ってきました。
そして次に慣習が人々を縛り、社会が高度化すると法律が人々を縛るようになりました。
アナーキスト(無政府主義者)は縛られることを極端に嫌うので、これらを強く否定して破壊しようと考えますが、多くの人にとって居心地のいい社会とは、構成員が様々な縛りに率先して服従し、公共のために本能を抑制する社会です。(これを節度あるとか、礼儀があるとか、様々な表現をする)
これが解放されている社会は、各々が本能のままに動いて犯罪が多発してカオスになるからです。(無政府状態の国の状況がそれ)
日本はもしかしたら他の緩い国々よりも縛りが強くて多い社会かもしれません。でも、そのおかげで今の安全で互いを信頼しあえる日本があるわけです。
普通、こういうことは学校なり家庭なり社会なりで自然と学んでいくと思うのですが、某インフルエンサーのような発言を容認する人が少なからずいるという事は、そういう教育が今十分になされていないのだろうかという危惧も一方で発生します。
隠されるべき職業ってあると思う
少し話はそれますが、前からぼんやりと気になっていることがあります。昔なら、闇というか夜というか、昼間の世界には出てこれなかった職業が、まるでアイドルか何かのように、その職業を出してもてはやされていることです。
若者が少なくなり、市場が縮小してキャバクラの倒産件数とかも増えているので、そういう職業の人達が必死に集客しようと頑張っているのは理解できますが、彼らを思慮分別がない子供も見るような公で扱うべきなのだろうか、正しくゾーニングされて隠されるべきではないかと思います。(昔はゾーニングされていたものが隠されなくなってきているから、タブーをタブーだと理解できなかった某インフルエンサーみたいな人が出てくるのでは)
よく職業に貴賤なし、という言葉が使われます。でもこれはそもそもの物差しが間違っています。
貴賤は善悪の物差しです。でも職業はふつう道徳ではなく需給で決まります。
需要と供給は善悪の物差しでは測れません。マーケットのニーズは欲望から生み出されるからです。だから社会的、道徳的に間違ったことをしてでも大金を稼ぐことが可能になります。
職業に貴賤なし、という人は物差しを意図的にすり替えて、何かを主張しています。
ホスト、キャバクラ、AV等の性風俗の職業が今まで闇の世界にいたのは、彼らの商売がかなりグレーだからです。
個人でロマンス詐欺をやると捕まりますが、ホストやキャバクラでやると合法になっています。(逆に誰も罰してくれないので、私刑に訴える人がでてきて殺人事件になる。全員がロマンス詐欺やってるわけじゃないとしても、業界としてそれをやめられないからそう見られる)
道でたちんぼをすると警察に捕まりますが、AV等だと捕まりません。
やってる事は同じなのに、なぜか罰せられない。その辺の限りなく黒に近いグレーさがあるので、今まではその業界の人達も自覚して表に出てこなかったし、社会の側もファッションショー等の公の場には様々な配慮から出さなかったのだと思います。
でも今は闇の稼業の人達が堂々と昼間の世界に出てきていて、その道だけで戦ってきたふつうのモデルと同じように扱われ、分別のない子供たちが仕事内容の黒さも知らずにあこがれをもってしまっています。
夜の稼業の人達は、自分の選択で、もしかしたら違法すれすれのことをやっているのに
そういう事をやらずに純粋に努力してきた普通のモデルたちと同様に扱われるのっておかしいのではないかと思ってしまいます。
でも今は「自由」が跋扈する世の中で、個人の自由を制限するのは他者の自由以外にはないので、この流れは止まらないと思います。
今までは人々の内側の倫理観とか社会の暗黙のルールでやってきただけで、法律で規制はできないので、こういう流れは止まらないと思います。
一番の問題は、グレーな業界の人達が、がんがん表に出てきているのに、それに真向から対立できる「光の戦士」的な価値観が薄れて、そういうシンボル的な存在がいないことだと思います。
むしろ、昔は人々の模範とされていたような道徳的価値観がものすごく軽視されて、リベラルの攻撃の的になっている感じがします。
生き方が作品という考え方が衰退してきた?
社会は、宗教、道徳、慣習、法律等の多くのレイヤーで人々の行動に制限を加えて秩序を作っています。でも、それを壊していくのが、最近の暇を持て余したリベラルです。(昔は女性や子供等の人権のために戦っていたが、実現して何もやることがなくなったので、暇を持て余してるのか余計な事をしはじめた)
様々な縛りや拘束をなくしていくと、社会は逆に自由ではなく、混沌へと変わります。だから既存の秩序を軽視するような「オープンマリッジ宣言」をする人が現れて、大炎上するのだと思います。
今までは道徳観のようなもので、人々の中に秩序の共有ができていたのに、それが弱くなっているのかなと思います。
不道徳な教師から、机上の空論の左翼思想道徳を学ぶのは自分もごめんこうむりたいと思いますが、それなら他の何かで知識や認識の共有をしなければならなくなります。
外国は罪と罰の文化で、日本は恥の文化だと言われてきました。
昨今「これは違法じゃないから問題ない!」と豪語して変な事をする人が多くなっています。
自分の中に規律がなく、外の規律に頼る人が多くなると「罪と罰」の社会になります。究極、シンガポールのようにあれをやると罰金、これをやると豚箱、というように人々の行動を厳しく律する社会になります。
日本は「おてんとうさまが見てる」に代表される、内なる規律や倫理観のハードルが高い社会だったので、法律そのものは外国に比べるとザルです。(だから中国人が悪用しまくる)
でも多文化共生で外国の人が多くなってきてたり、日本人そのものも、他律の倫理観になってきているのなら、もう外国同様の「罪と罰の文化」に移行しないといけないのかなとも思います。
でもそれは窮屈なので、できれば日本は高い倫理観や意識を持った人々が多い社会であり続けてほしいと思います。
日本には長い歴史の中で紡ぎあげられてきた道徳観があり、それを実践した多くの偉人とその書籍があるので、それを学校で学ばせてほしいし、大人になってからも学べる社会であってほしいと思います。
上品、下品、徳、不徳、等様々な価値観が軽視されて、物質的なものが評価されすぎているように感じます。
精神的な価値基準から、物質的な価値基準のほうが優先される社会は、むき出しの欲望を多すぎるルールで罰する社会になりそうで、個人的にいやです。。
とりあえずみんな、後世への最大遺物と、レ・ミゼラブルを読めばいいと思います。
美しい生き方、それは簡単ではなくとも、求める姿勢が大切なのではないかと思います。
【紹介文】われわれはこの世に何を遺せるでしょう。それは、金(かね)か、事業か、思想か。さまざまな具体例を挙げつつ、これらはいずれも遺すに価値あるものとされます。しかしどれも才能を要するものであり、万人に遺すことのできるものではありません。またその遺し方や用い方を誤れば、かえって害をなしてしまうこともあり、本当の最大の遺物とは言えません。それでは、何人でも残し得る最大遺物とは何か。それは、「勇ましい高尚なる生涯」であるというのです。 われわれの人生は、常に順風満帆というわけにはいきません。打ち負かされたとき、失敗を被ったとき、世に捨てられて助けを失い、進むべき道を見失うことも少なくありません。しかしそんなときにこそ、「人としてどのように生きるか」が重要であることを教えられます。
【紹介文】罪人から正しい人へ。
正しい人として生きようという、主人公の奮闘が古今東西多くの人の心をうつ。
『レ・ミゼラブル』は、ヴィクトル・ユーゴーの長編小説で、パンを盗んだことで19年間投獄されたジャン・バルジャンの物語です。司教の真心に触れて改心し、「正しい人」として生きようとするバルジャンは、薄幸な女性ファンテーヌから娘コゼットを託され、ジャベール警部の追跡をかわしながらコゼットを育てます。物語は、19世紀フランスの貧困や革命の時代背景の中、愛、正義、人間の成長を描いた壮大な人間ドラマです。