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こんにちは、蒼生です。
大学生学力低下で中学生レベルにという記事と、日本語消滅の危機という動画を見てこの記事をかきます。
大学生の学力低下は今にはじまったことではないので、ふーん位で見てました。
次に国語でおなじみの齋藤 孝氏の話を聞いて著書をよみ、これってやばいのかもしれないと思いこの記事を書きます。
動画では日本語消滅の危機と題して、日本語のかわりに英語を教育にとりいれようとする流れを紹介しています。斎藤氏は、日本語は守ろうと努力しなければ守れない言語であると話し、人口減少社会やグローバリズムを理由に英語をベースにした教育に変わるリスクについて警鐘をならしています。日本語消滅の危機が静かに進んでいるようなのです。
日本語の特殊性
日本人は虫の音を音楽のように聞きます。しかし日本人以外の多くの国の人々は、それを不快なノイズと判断するそうです。
京都にある鈴虫寺は、日本人にとって自然の美しい音楽を聴ける場所ですが、外国では騒音寺と呼ばれているそうです。
これは日本人は虫の音を左脳の言語野で把握しているのに対して、日本語圏以外の人々は右脳のノイズを判断する部分で把握するからだそうです。
つまり、秋になると虫の音を美しいと思えるのは日本人特有の能力だという事です。(正確には日本語を母国語としている人々)
また、日本語は主語がなくても成立する言語です。そのため、Google翻訳で翻訳するとだいたい主語を間違えます。
海外では主語があるのが当たり前です。そのためレヴィ・ストロースが指摘したように、多くの国では内から外へと影響を発揮していく言葉の作りになっているため、物の考え方もそのようになっていきます。自己を押し出していく思考態度は言語が形作っている可能性があります。
日本は逆に外のものを内側へ取り込んでいくという形になっていて、それが意識の働きにもあらわれているとされます。日本語は英語等にくらべると自我が希薄な言語です。
そしてはっきりとものを伝えない場合が多いので、相手の気持ちを察する能力が自然と磨かれていきます。日本には露骨に伝えるのは無粋という文化があるからです。
そのため日本の文化は、日本語という特殊な言語が作り出している可能性が高いのです。
バイリンガル教育は人工的に知的障碍者を生み出す危険がある
なぜ日本語のかわりに英語で勉強すべきだという人がいるかというと、日本語話者はせいぜい1億人程度だからです。
英語なら25億人いるので、英語を共通語として学校で教えたほうがいいという意見です。”いわゆる”国際化というやつです。しかしこれは本当の国際化ではなく皮相的な発想です。
こういう意見は私が子供のころからあります。なぜなら日本の英語教育では、大人になっても英語を習得できない人がほとんどだからです。
そのため、自分はしゃべれないのに子供には幼いうちから英語の授業をすれば、もしかしたらバイリンガルになるのではという淡い期待をもっている親御さんが多数います。
でもこれは日本の英語教育の問題であって、日本語に非はないと思うのです。
そもそも、幼い頃からバイリンガルにしようとする教育は優秀な子供向けの英才教育としてはいいのですが、義務教育でやった場合は非常に悪手です。義務教育ではさまざまなレベルの子供が集まっています。そのため多くの子供にとっては、すべての言語が中途半端な状態で習得されてしまうという弊害があります。つまり、母国語すらろくに扱えないし、外国語も中途半端という状態になってしまうという事です。挨拶や日常会話レベルなら習得できるかもしれませんが、少しレベルがあがるとどれも十分に理解できず、完全に中途半端で実践的ではないという、人工的につくられた知的障害の状態になってしまうという事です。
そんな事になるくらいなら、母国語だけでいいと思うのです。というかほとんどの子供にとっては一言語を習得するので手一杯です。
しかも今は、主に日本語しか習っていないはずなのに、母国語すら満足に読み書きできない人がたくさんいて、大学生のレベルの低下にまでつながっています。彼らがもし幼い頃から日本語そっちのけで英語の授業を受けていたら、知的障害レベルで両方の言語を理解できなくなっていた可能性があります。
(埼玉では外国籍の子供が多いらしく、家庭で話される言葉と学校で学ぶ言葉の乖離から学習についていけず、学力的に取り残されているので、教師が特別補講をしているらしい。そのくらいバイリンガルはふつうの子供にとって簡単ではない)
大人が外国語を習得する場合、単語を一定数以上覚えたらそこからは速度が速いということがわかっています。言葉同士のつながりを理性的に理解できるようになるからだそうです。子供のころは耳で覚え、大人になったら理性で覚えるのが言語のようです。
だからベースの言語を変えるとかではなく、いくら勉強してもろくに話せない日本式英語教育の方を見直すべきだと思うのです。(今のやり方は明治時代に外国の本を自由に読めるようにするために編み出されたもので、会話するための方法ではないとされている。明治時代は西洋列強の進んだ知識を本から習得するのが目的だったが、今は目的が違うのだからやり方を変えればいいだけの話だと思う)
日本語を話せなければ、日本の伝統を継承できない
日本語話者なんて一億人程度しかいないのだから、英語をベースに教えるべきと言う人達は、合理主義者のようでいて非常に非合理的です。
もし本当に自分の子供に英語を習得させたければ英語圏にいくべきです。そして自分も英語話者になるべきです。
合理主義者の一番よくないところは、すぐにムダを捨てようとするのに捨てるものの価値をよく吟味しないところです。
そのため、大切なものを捨ててしまってから、あとで後悔するという事がよくあります。個人レベルなら別に構いません。仮に困ってもその人の人生です。でも社会レベルになると違います。
彼らは歴史の重みを軽視しがちです。文化伝統というものにも敬意を払わないときがあります。それが重度の問題をひきおこします。
もし日本人の多くが日本語を満足に話せなくなったら、日本の文化伝統は維持できなくなります。文化的断絶がおこりやすくなります。先に言ったように日本語は特殊な言語であり、その特殊性によって日本人の特殊能力が生み出されている可能性が高いとされています。
日本は非常に歴史の古い国家であり、世界に誇る様々な文化伝統がありますが、日本語を十分に理解できない人が増えるとそれすらも継承できなくなったり、捨て去られることにもなりかねません。
現に大学生のくせに明治時代の本を読めない人たちがいます。明治時代は今とほとんど文章が変わらないのに(少し言葉遣いが古いくらい)それすらも読めないのです。それどころか、私はゲームをつくっているので、いい年をした大人が基礎的な漢字を読めない、言葉を知らない、少し長い文章になると完全に理解できない。という現象が起こっていることを知っています。
日本人全体の学力が落ちているかもしれないときに、なんで欲を出して外国語まで手を出そうとするのかわかりません。できないならできないなりに、無理せず翻訳アプリでもつかっていればいいと思うのです。
以前「価値観が社会の軌道を作る」、で書いたように伝統を継承できなかったときの損失は計算不可能です。
私は母国語をしっかりと習得できていれば、外国語の習得もできると考えています。しかも明治期に大量につくった造語のおかげで、日本人は難しい概念すらもすぐに理解できるという大きなメリットを享受しています。それなのに、なぜその価値を軽視してわざわざ英語を使おうと言うのか分かりません。(明治期に作られた造語:化学とか美術とか共産とか。共産党は日本語。中国では現在明治期の翻訳語が大量に逆輸入されて日常語として使われている。そのぐらい明治の造語は意味が的確で使い勝手がよかった)
義務教育段階で母国語をちゃんと習得できていれば、知りたいと思うありとあらゆる知識にアクセスすることができます。それでまったく問題ないと思っています。優秀な子をのぞき(そういう子はバイリンガル教育をしても大丈夫だから)、学校ではまず母国語をしっかりと習得させるべきだと思っています。
国語の授業なんて普通勉強しなくても合格点をとれるのに、それができない人が少なからずいる状態で、外国語を幼いうちから学ばせるのは子供にとって負担が大きすぎます。
(日本人なのに、日本語難しいとか言ってる人たちがいる。彼らは母国語すら自由に扱えていない自分の問題を日本語に押し付けている。彼らはどこかの段階でネイティブなのに日本語をきちんと使えなくなった人々で、最低限は話せているから、自分は自由に日本語を使えていると錯覚している。彼らは長い文章を読めないという特徴がある)
人口減少社会だから英語?→それは文化的侵略を受け入れる発想です。
人口や国際化を理由に、日本語を捨てて幼いうちから子供たちに英語を学ばせようというのは、文化的侵略を受け入れる考え方です。
太平洋戦争で日本が敗戦し、占領のためにやってきたGHQは、日本人の学力が低いからこんな無謀な戦争に突入した、という仮説をもっていました。そして二度とこんな事がおこらないように、日本の英語圏化を構想していたそうです。そしてその仮説を立証するために、日本語テストを多くの国民にうけさせることにしました。
そのテスト作成を担当した日本人たちは、文化的侵略を阻止するために、一見難しそうだけど日本人にとっては簡単な問題を作成し、高い正答率を導き出してGHQの目論見をへしおり、みごと日本の英語圏化をふせぎました。
そういう経緯があって、日本は敗戦後も日本語を話すことができています。
そのテストを作成した人々は、日本語を守ることで日本の文化伝統民族全体を守ったのです。
もし日本が敗戦後、英語圏になっていたら日本という国は多くの部分で失われていたかもしれません。文化人類学者レヴィ・ストロースが愛した国は文献の中の世界になっていたかもしれません。相手をおもんばかり、災害時にも相争わず、和を重んじる人々は消えていたかもしれません。そして、京都の鈴虫寺は、多くの外国人がそう感じるように「騒音寺」になっていたことでしょう。
なぜ、これほど歴史の長い美しい国の大切にして一番基礎的な部分を、自ら捨てようとするのか。
日本人なのに日本のすばらしさを知らないから、そんな安易な発想ができるのではないかと思います。
もっと自国の歴史や伝統を学んでほしいと思います。
あと、イーロン・マスクにも言われるくらい深刻な少子化を政治家は食い止めてくれ。
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