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こんにちは、蒼生です。
昨今のAIの進化から、人間は働かなくてもいい時代に突入すると言われています。
だから今回は労働について考えてみようと思います。
ギリシャとローマ
AIが進化すると、社会はどうなるのか、今のところ多くの人が予測不可能だと言っています。
しかし歴史を見ると、似たような状況にあった地域があることがわかります。
以前から、AIが発達すると、それが人間の労働のかなりの部分をやってくれるようになるので、必然的にギリシャやローマの時代に戻るのではないか、と常々想像していました。
ギリシャとローマは大量の奴隷を使って必要な労働をさせることで、今の我々と同じように、市民は何もすることなく暇な時間を過ごしていたとされています。
暇はギリシャ語でスコレーというそうです。これがスクールの語源になったといわれています。ギリシャ人は有り余る暇を利用して哲学を発達させました。対するローマはというと、ギリシャとは対照的に有り余る暇を娯楽で消費することに熱心でした。
この暇を利用して思考し哲学することに熱心だったギリシャと、暇を娯楽によって消費していたローマでは大きな違いがあります。
ローマはパンとサーカスという方針に従って、人々に余計なことを考えさせないように生活の糧と精神の糧をあらかじめ用意しておきました。その結果人々はコロッセオに夢中になり、大浴場で一日を過ごすという優雅な生活を謳歌することができました。
ギリシャにはコロッセオはありませんが、かわりにアゴラという広場(言論の場になったり商取引をしたりする)があったそうです。アゴラは仮想空間では不可能だと思います。なぜかというと小規模アゴラはすでにネット上にコロニーのように無数に存在しているけれど、アゴラ的な価値を持っていないからです。
ネットの特徴の一つは自分が興味がない事はその人の世界から完全に消えてしまうということです。ですので、ネット上に存在する小規模アゴラはただのサークル活動であって、ギリシャのアゴラといえるような規模や価値はありません。メタバース世界であればどうかという話になりますが、そうなると別の理由でネットの不完全さが露呈します。というのも、ギリシャの哲学者は座ってではなく歩きながら哲学をしていたからです。理由は極めてシンプルで、歩くと脳の血行がよくなるから。人間は肉体から多くの情報をとり、脳という臓器を動かすためにも運動しなければならないので、ネット上の仮想空間では限界があるということです。(様々な装置をつければいいという話になるけれど、それなら現実に出てきた方がはるかに安上がりで価値ある経験ができる)
アゴラは現実世界にあって、誰でもそこに存在を認めるような形でなければアゴラとして機能しないのではないかと思います。
参加する意思がなくても、なんとなく公園に立ち寄るような軽さでアゴラに参加できるのが理想です。
しかし、そうした場が仮に提供されても、そこに人々が集うかはまた別問題です。ギリシャには良き市民という誇りがありました。ギリシャは民主制を採用していたので一人一人が賢くなる必要があったのです。
日本はギリシャとは事情が違います。民主制を維持する誇りをどのくらいの人が持っているのかは不明です。だからどうでもいいニュースがトップを飾るのかもしれません。
しかも現在の社会は娯楽にあふれています。娯楽が氾濫して、それぞれが時間を奪い合っています。客観的に見ると、現在はローマに近いと思います。食に困らず娯楽にあふれ、思考する意思と時間を奪われ続けています。
ギリシャ的な哲学時代の再来を願うには、ローマ的な環境が整いすぎているように感じます。
価値観が社会の軌道を作る
同じ暇をもてあましていても、ローマ市民とギリシャ市民ではそこから違う成果物を得ました。その最大の原因は「価値観」だったのではないかと思います。ギリシャでは「市民」とは理知的で政治を語れる人物であり、その市民として立派に議論するためにアゴラで議論しあったり、様々な哲学を発展させたりしました。
ローマの市民は、自由を謳歌する権利の意味あいが強く、自由を味わうための様々な娯楽を考え、楽しみました。
これはいい悪いの話ではなく、こうした価値観がその社会の軌道を無意識領域で形作っているという事だと思います。
ギリシャとローマ以外の地域で、特に価値観の差を痛感したのは、李氏朝鮮の歴史を学んだときでした。
李氏朝鮮では、儒教の朱子学が国教化されていたので、その価値観に従い、「働く事は忌むべきもの」とか「卑しいこと、悲劇的なこと」という価値観が蔓延し、社会的指導層であるはずの両班らは、まったくもって労働をせずに、民衆に働かせてはもっぱらその成果物の搾取にあけくれていました。まるでそれこそが美しく道徳的であるとでも言わんばかりの容赦のなさで。その結果李氏朝鮮の技術レベルは20世紀になっても日本の10世紀前くらいのレベルで止まっていて、働いても報われないので民衆は常に貧困にあえいでいました。(労働や技術や外来の知識を軽視し蔑視したら朝鮮でなくても必ずこうなる)
この「労働を忌むべきもの、卑しい事」とする考え方を知り、私は衝撃を受けました。そんな事に衝撃をうけるというのは、私が日本人である証拠なのかもしれません。
日本には古くから「勤労の美徳」という、李氏朝鮮とは真逆の価値観を社会の上層部から低層部まで広く持っていました。だから二宮尊徳が子どものころに薪を背負って勉学にいそしんだという話が美談になるのでしょう。労働を嫌悪する社会であれば、二宮尊徳の話は貧困が生み出す悲劇として解釈されかねません。
価値観が行動に変わる
労働に関する価値観は、経済活動に直結します。
アダム・スミスの国富論では、価値は労働から生まれる。とされています。つまり、国や社会や個人の生活を豊かにするには、労働するしかないのです。その労働によって生産が増え、分業レベルがあがれば、自然と国は発展していきます。
尚アダム・スミスは、人々の幸福についてという哲学的な問いを始めた結果、経済活動に関する優れた洞察をしました。つまり経済的豊かさは幸福の必要条件であると、アダム・スミスは考えたのです。
勤労の美徳という価値観は人間が人力で生産活動をするフェーズにあっては間違いなく大きな原動力となり、社会の発展に寄与します。
しかしAIに多くの仕事が急速に奪われると確実視される現代において、従来のままの考え方は、やや危ないのではないかとも思います。勤労の美徳を純朴に理解する段階においては長時間労働が評価されます。生産性と労働量が比例関係にならない21世紀において、かつての美点であったその考え方が、環境の変化によって弱点となり足を引っ張りかねない状態になりつつあります。
日本の勤労の美徳という価値観はアップデートしなければならない価値観です。
日本人の労働に対する姿勢は、「資本主義とプロテスタンティズム(マックス・ヴェーバー)」で指摘されたプロテスタントの考え方に近いものがあります。日本人は些細な事であっても、その仕事を通じて社会に貢献しようという意識をはっきりともっています。だから誰に頼まれるでもなく、技術レベルをあげ、細かな気遣いや改善を繰り返してサービスや商品を改良していきます。そうした意識をCEOから末端のアルバイトまで持っているところに日本の底力があります。他の国であれば特別な教育プログラムを用意しなければならないのに、それをしなくてもいいところに日本のアドバンテージがあります。
プロテスタントは労働と蓄財によって神の意思にそおうとしました。その成果と報酬は天国に入って神に認められる事です。でも日本人にそのような世界観と価値観はありません。
かわりに日本人は自分が属する社会や会社や顧客に対してプロテスタントの信仰心に近い忠誠心と献身性をもって、同様のことをします。
だから日本の勤労の美徳という価値観は、今後労働量ではなく質と効果に置き換えることができれば、今後も同じ価値観を維持することは可能だと考えます。
歴史の成果物を受け取るためには価値観の継承が必要
勤労の美徳は、非常に日本的価値観です。だからこそ、否定的に考える人が少なからずいるのも理解できます。しかもこの考え方が時代遅れになりそうだとなれば、捨ててしかるべきと考える人が現れても不思議はありません。
しかし何故古い価値観を捨てるのではなく、アップデートしてまで維持しなければならないかというと、歴史の断絶を起こさないためです。
価値観を意識的に改革して前のものを全否定し、新しいものにしていく例とその効果を、中国の王朝の歴史から見る事が出来ます。中国では易姓革命という思想があるせいで、前の王朝がどれほど素晴らしい事をしていても、あたらしく権力を持った側はそれを全否定していくことが正しいという価値観をもっています。その結果前の王朝の良書を燃やしつくし人を処刑しつくします。そのため歴史的良書が、なぜか日本にしか残っていないというような事がおこっています。
過去の否定は進歩とは真逆の結果になるという事を歴史は示しています。有形物の破壊のみならず、無形物の破壊についても注意しなければならない理由です。
対する日本は易姓革命のような破壊的思想がなかったおかげで、長い歴史の中で文化や技術を守り育てあげることができました。大陸の歴史と比較すると、日本人は本当に温厚でゆるいなと思います。だから徳川家は今も残っているし、天皇家は2000年もの歴史を持っています。時の権力者らに育てられ、付き従った技術者たちの技術がずっと残っているのも日本人全体がもっている温厚さとゆるさのおかげだと思います。(お抱えの技術者たちが処刑されず、技術の断絶がおこらなかったのは大きい。他にも知識人が集中していた宗教界がつぶしあうのではなく共存しているのは珍しい、本当にゆるい)
そのゆるさのおかげで実り熟した歴史の成果物を受け取る事ができるのは、日本というゆるい文化圏にある者たちの特権です。
有形のものであれ、無形のものであれ、受け取れるものは受け取らなければ損です。しかし無形のものは、非言語的なものが多いので、価値観という本質的なものを共有した人達でないとそれを理解できず受け取れなくなります。受け取れなかった時の損失は計算不可能です。
たとえば明の良書を燃やしたせいで清は知的断絶が起こって、明の良書を輸入して保存していた日本に結果的に追い越されました。
また、キリスト教圏では一度ギリシャローマの価値観が全否定され忘れられたものの、ルネサンスで復活した経緯があります。その間数百年、中世の暗黒時代です。復活できればいいのですが、できない場合も多いようです。だから考古学者や歴史家がそれを研究しているのです。
時代に合わなくなったからとか古いからといって安易に捨てるのではなく、保存し時代にあわせてアップデートしていかないといけないと思う理由はこの通りです。
価値観は作られたもの
日本人の特徴は、国民の倫理レベルが異常に高い事と、ろくに言葉を交わさずともコミュニケーションが取れてしまうところにあります。
日本は同質性が高いので、言葉で多くを伝えようとしなくても、その意図するところが相手につたわってしまう特殊性があります。海外の人から見るとテレパシーなのではないかと疑われるレベルだと思います。
それは道徳という非常に曖昧模糊としたものまで可能にしています。普通は言葉でいくら説明してもなかなか伝わらないものなのに、それが日本人の中でもまれているといつのまにか身についてしまうところにこの社会の特殊性があります。日本の治安の良さは一人一人の倫理観の高さによって維持されています。災害時でも理性を失わずに、日常と同じように獣性を押し殺してルールに従う日本人に海外のメディアは驚愕しました。
これは、日本では当たりまえですが、当たり前ではないところの方が多いようです。
けれど、日本は少子高齢化が急激に進む社会なので、これから社会を維持するためには移民を多く受け入れなければならないとされています。移民を受け入れるという事は、価値観がまったく違う人々と共存するという事です。日本人同士の空気を読むコミュニケーションは不可能になりますし、価値観の違いによるトラブルも起こるでしょう。日本人は自らを主張せず、多くを語らずに周りに同化する性質を持っていますが、別の文化圏から来た人々にそれは不可能です。ちゃんと説明して日本の社会ルールを学んでもらう必要がでてきます。そこで衝突が起こるだろうことは容易に予想できますし、うまく同化できない可能性もでてきます。
しかし、アメリカのような移民大国を見ればわかるように、様々な地域から来た人々が同じアメリカ人としての価値観を共有し団結することは可能です。それを見れば、価値観の違いは教育プロセスである程度解決できる問題なのではないかと思います。
移民を受け入れるとき、日本とは何か、もっとも大事な価値観は何なのかを、日本人自身で問い、説明できるようにならなければなりません。
労働の価値観もそうですし、和の価値観もそうですし、正直であることなど、日本人でさえ気づいていない、日本的なものを自覚しなければならなくなります。移民政策は少子化の進行と共にこれから必然的に進んでいくものだと思います。子供の数が絶望的に少ないのだから仕方ありません。デジタル技術で生産性をあげても、人間でしか担えない分野はまだたくさんあります。人口が減ったときに、そうしたものが一気に崩壊していきます。だからこそ、移民を受け入れ、新しい社会をつくらなければならなくなった時に、日本の新しい時代は生まれるのだと思います。
多種多様な人々がいても、日本的であるという社会が。
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