顔小さいは悪口?ルッキズム。清のてんそくに似た奇妙な価値観

a two women slicing a cake未分類
Photo by Mikhail Nilov on Pexels.com

蒼生Kindle書籍一覧 Amazon.co.jp: souseiworks:作品一覧、著者略歴

顔が小さいというのは侮辱になりうる

こんにちは、蒼生です。

若い女性の間で、「顔小さい」という言葉が誉め言葉になっているようです。

はじめて聞いたときは、それ誉め言葉というより悪口じゃないか、と思ったのですが、彼女たちは明るい顔で「顔小さい」を連呼するので本当にそれを誉め言葉だと思っていて、悪気は微塵もないようです。

顔が小さいというのは彼女たちにとっては重要な美的要素らしく、

なんなら生まれつきの顔のサイズを変えるために骨を削るというおおがかりな手術をおこなったり、加工アプリで不自然なまでにサイズを変えたりするようです。そのため、より非現実的なサイズの頭にあこがれるようになるようです。

顔が小さいというのは、日本人の若者の間では誉め言葉らしいのですが

外国の人に無邪気にそれをいうと、やはり侮辱の言葉として受け取られて喧嘩になったり相手を不機嫌にさせたりするそうです。

それを聞いて、そうだよな~と思いました。

顔が小さい=頭が小さい=脳みそ足りない=バカ という表現に聞こえるからです。

でも、若い女性の会話を聞いているとその文脈も含めて「かわいい」になっているようです。

清のてんそくを彷彿とさせる価値観

中国の清王朝の時代、てんそくという風習がありました。

てんそくは、女の子が生まれた時に足にきつく布を巻き付けて足が大きくならないようにするものです。清の時代、美人の条件は足が小さい女性だったのです。

そして幼少時からてんそくをされて育った女性の足は骨が変形し、自身の体重や身長に比して不自然に小さい足になっているので、一人では自由に歩いたり走ったりすることができなくなります。でもそれが美しい女性の条件だったのです。ちなみにこれには理由があります。

中国には儒教の価値観があります。

儒教では女性は男性に付き従う存在として扱われます。それを端的に表現したのが「三従の教え」です。

これは生まれては親(父)に従い、成人したら夫に従い、老いては子(長男)に従うのが女性のあるべき姿だという教えです。一言でいうと奴隷思想です。しかしこれが美徳して扱われるところに儒教の個性があります。

儒教は基本的に社会の上層部が下層部を支配するためのものなので、上下を明確にし、下の人間が反抗しないようにあるべき姿を教えます。すべての男性に対して上に反抗しないようヒエラルキーを叩きこむので、不満が生じます。でもそばにいる女性たちが当然のように彼らに従属する存在であれば、溜飲がさがります。そうやって、どんなに下層の男でも家庭内では頂点に立てるように道徳を整備しています。

そういう背景があるので、自分の意思で身動きさえできない女性が美しいという状態になっていました。

教養ある女性が美しい女性の条件だったかつての日本

世界最古の長編小説にして、世界最古の女流文学は、日本の「源氏物語」です。日本では江戸時代に徳川が統治のために儒教を入れるまでは女性がかなり強い存在でありつづけました。

そもそも最高神が女神天照大御神です。原始女性は太陽だった、の通りです。日本では階級制度がなかったせいで、女性を下の地位につける必要がなく、それどころか卑弥呼や戦国時代の女城主のように高い能力があれば、男性と張り合うほどの強い権力を持つ人々もいました。

平安時代の紫式部や清少納言は、当時の才女で、天皇のおきさきになる人を教養ある人に育てるための教師でした。

小野小町は、美しい和歌をよめるという事で当代随一の美女として扱われました。(求愛した人達みんな顔見てないけど)

ルッキズム批判をする人達の理想は、平安時代のような才知と教養だけが評価される時代にあるんじゃないかと思うほど、能力至上主義です。

当時の女性は軽々しく男性に顔を見せないので、自らの魅力を示すものはその才知と教養しかありませんでした。つまり内面です。

男性の側も、和歌等から相手の女性の才知や教養の深さを評価する文化と姿勢がありました。

 

でも徳川が儒教を統治のために取り入れたせいで、昭和くらいまで女性が学んだり社会進出することを拒む風潮がありました。知は力なり。というのは古今東西の真理です。だから主人は奴隷が愚鈍であることを望み、知識の独占をしようとします。儒教によって女性は男性に対して著しく下位の存在に降格したことで、女性が男性と対等にはりあう存在にならないように教育をはじめ様々な障害が設けられるようになりました。

そしてその問題をより複雑にしたのは、権利を制限されている女性の側がその価値観を受け入れて適応しようと努力していたことです。

小象が足につながれた鎖の重さを学習し、大人になってもそれを引きちぎろうとしない話のようです。

幼稚性と脳タリンを貴ぶトレンド

言葉を選ばずに言うと、今は少なくない女性があえて努力して「幼稚性」と「バカに擬態」することによってモテようとしているように見えます。それが可愛いの条件になっているせいで、本当は大人で頭がいいのに、努力してがんばってそのようにふるまっているように見えます。

この前詐欺罪で逮捕された頂女子りりちゃんなんかはその典型に見えます。

なぜだろう。と不思議で仕方ありません。大人なのに子供のような言葉遣いや態度をあえてし、本当は頭がいいのにバカに擬態する。それが可愛いと評価されるのであえてそう演じているように見えます。

本人の問題なのか、それともそうしたものを評価する周りの問題なのか、それは分かれるところです。

でもそうした幼稚性や脳タリンな女性を評価する環境があるのも事実です。これは儒教的価値観がまだ根強く残っていて「御しやすい女性」を男性の側で求めているせいではないかと推測します。

頭がいい女性は御しにくいが、頭が悪い、もしくは幼い女性は御しやすいからという安心感です。

でもそうした女性を求める男性は、当人がまずとても弱くて自信がなく、だからこそ自分よりも弱い存在を求めているからではないかと思います。

男性の理想像を具現化したキャラクターがいる

男性、特に非モテ男性の話を聞くと、その理想は「ナウシカ」に収れんされていくようです。男性の理想を具体的に描いたナウシカはジブリキャラの中でも抜群の人気をほこっています。(ナウシカ:言うまでもなくスタジオジブリが作ったフィクション作品)

ナウシカのように気品があって誰にでも優しくて、それなのに強くていざとなったら自己犠牲もいとわないところに多くの男性は憧れを抱くようです。(もしくは同様の要素をもったフィクションキャラに恋心を抱くらしい…。怖い)

フィクション女性を理想視する意見を聞くたびに

そんな女性いねーよ、現実見ろ。それフィクションだから。と強く思います。でも彼らには彼らなりに理由があるようです。

幼稚な女性を選ぶのも、聖女のような女性を求めるのも、理由は男性側の弱さにあるように思われます。弱い男性でなければ、自分よりも圧倒的に弱くて庇護しなければいけないほど幼かったり知能が足りない女性を選んだりはしません。また独り立ちできていれば、自分を守ってくれて代わりに戦ってくれる聖女のような女性を理想視して求めたりはしません。

両方とも自立できていない人が求めている幻想でしかありません。(そして狡猾な女性はその理想像になりきって利益を引き出そうとする)

ナウシカは精神が定まっていない男性の希望の星を宮崎駿が的確に把握して作りだしたキャラクターとして輝き

幼くて脳タリンぽい女性を探して庇護しようとする男性は頂女子りりちゃんのような狡猾な女性に捕獲されてしまうんだなって思いました。

弱いという事はそれだけで重大な問題だと思います。こんな感想もつからナウシカの需要があるんだけど。

話はかわり、ナウシカなんて女性いねーよ。現実見ろ。と思ってきた自分ですが、一人だけナウシカみたいな女性がいる事を思い出しました。

美智子様です。才色兼備、良妻賢母、完璧超人すぎる人です。

美智子様は、若かりしころ、上皇様にプロポーズされた際に、

(私は国民と日本国のために働かなければならないから)公務が最優先で、それ以外の事は二の次になってしまうという事を言われ、

普通の女性なら「自分を最優先にしてくれない、一生守ってくれるとも言ってくれない」と失望して断るところを

美智子様は、それなら自分が上皇様をお支えしなければならないと思ったそうです。

この時点で凡百の女性とは一線を画します。

そして火炎瓶が皇太子時代に投げつけられた時も陛下をお守りしようとし、晩年心臓のご病気になってそんな中陛下が無理をして公務に出た時もそばでずっと陛下をお支えしておられます。

リアルナウシカというか、まさに聖女のような美智子様ですが、このような素晴らしい方は上皇様のような特別優れた方とだからつり合いがとれているんだろうなと思います。普通の男性とは釣り合わないし、むしろもったいない。アニメ見てるだけのナウシカ推しとかは絶対に無理。選ばれない。

やっぱり夫婦っていい意味でも悪い意味でも釣り合ってる人としか結ばれないから。

外部の価値観を内面に反映させる事の影響

本を読んで影響を受けるのも外部の価値観の内面への反映と言えます。そのため、これ自体は良いも悪いもありません。

大切なのは、「何を見ているか」、つまり情報の質です。

最近、若い女性がルッキズムに汚染されている、整形を子供のうちからしようとするという事がわりと問題になっているそうです。

彼女たちが主に見ているのはインスタグラムやTikTokのようなSNSです。いわゆる承認欲求増幅装置です。デフォルトでアプリ加工されるので、みんな現実とはかけ離れた姿になります。そしてそれが真実の姿だと思い始めたら、逆に現実を認められなくなる麻薬のような性質を持っています。

そんなものを日常的に見たらルッキズムという精神病にかかっても仕方ないと思います。仕入れている情報の質が悪すぎます。

自分の内面が出来上がる前に質の悪い情報を仕入れるべきではないと思います。

彼女たちは心の盾になるような知識や教養がない状態でそういうものを仕入れているので、外部の粗悪な価値観に染まってそれを自分の価値観に変えています。

過度に外見にこだわる人の意見を聞いて毎度思うのは、中身が空っぽすぎないか?という事です。

人間的空虚さというか、表面だけ綺麗にした中身のない箱のような印象を持ってしまいます。

しかもその美醜への過度なこだわりさえ、自分のものではない、他人からの仕入れものだというオチです。どこにも自分がない空虚さがあります。そしてより空虚になろうと努力しているので、それが美学なのだろうか、逆に無の境地目指してるんだろうかと困惑するほどです。

誰々みたいな顔になりたいと整形を願う人も同じくです。そういう人は自分がないし、綺麗で空っぽな箱になろうとしています。

こういうのの解決策は古今東西一貫して「本を読め」なんですが…。

(本読まない、もしくは読めないから空虚なんだよなって…)

たとえば、今はパッチリ二重で彫りの深い女性が好まれますが、江戸時代までは目が細くて平坦なうりざね顔が美人の条件になっていたので、そういう人の子孫はたくさんいます。普通にうりざね顔の美人は今でもたくさん生きています。

でも彼女たちの中にはその彫りの浅い顔を嫌ってわざわざ不自然な二重になろうと整形手術をしようとする人達がいます。

本当にかわいそうだと思います。彼女たちは自分の内面が固まらないうちに、外部の商業的な価値観を受け入れてしまったせいで、まちがった判断をしています。うりざね顔はうりざね顔でいいと何故思えないのか。これは彼女たち自身の内面の問題でもありますが、本当にかわいそうだなと思います。

私はインスタグラムもTikTokも見ないので、どういう顔がいいのかよく知りませんが、

ある種の顔が理想になった場合、9割くらいの人は理想的ではない顔になってしまいます。それは冷静に考えておかしいし現実的ではありません。しかしその判断さえできないようです。

他人が示した美の幻想を受け入れて取りつかれてしまったら、数百万、時には一千万以上かけてでも顔を変えたいと願ってしまうのかもしれません。

こうやって考えると、ルッキズムって本当に精神病だなと思います。拒食症とかと同じ。

行くべきところはメンタルヘルスクリニック。

蒼生Kindle書籍一覧 Amazon.co.jp: souseiworks:作品一覧、著者略歴

 

タイトルとURLをコピーしました