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戦前の教科書を見れるサイトを見つけた。
戦前の義務教育は小学校だけ。その先は任意で、今と違って色々な進路がある。それぞれの生徒の能力に応じて、進学したり、奉公に出たり、実業を学んだりという進路が分かれていた。しかも飛び級があったので、学ぶ期間をショートカットもできる。
旧制中学校は今の誰でも入れる中学校とは違い、5年制で難易度が高かった。一つの村から何年も中学進学者を出せないという事もざらだった。
そのため中学校に入れるだけでも相当名誉な事だったらしい。(学力的には進学校レベルの学力が求められたらしい)
帝国大学にいたっては、えりすぐりのエリートが日本のみならず台湾朝鮮からもくる。彼らは社会の指導層となるべく非常に高度な教育を受けていた。そのため今の大学生よりもはるかに高い価値があったらしい。
しかしそのエリートコースとは別に色々な進路があったのが戦前の特徴だ。しかもほとんどの国民は義務教育の尋常小学校で学歴が終了する。その短い期間で大多数の国民を一定の知的水準にまで引き上げなければならない。国民の知的レベルは国の未来を左右する。
だから戦前の義務教育レベルがどんなものだったのか興味本位で調べてみた。
算数
昔の小学生は義務教育で、今の小学生よりも高度な問題を解いていたらしい事がわかる。生徒に考えさせるような問題もある。これをかつての小学生は解いていたとか、マジか…と。どうやって落ち着きのない小学生たちをおとなしくさせて、こんな問題を解かせていたのだろう。そしてこれを難なく解けても、その上の中学校に行けるのは一握りだったのだから、かつてのエリートがいかにエリートだったかがわかる。
国語
国語読本の中で色々な事を教えているのが面白かった。
歴史や地理や社会制度等、およそ日本語で書かれたものはすべて教材と言わんばかりの多様さで、今の国語の教材よりもはるかに内容が幅広い。
しかも国語の教科書で教えているのに、別に地理とか国史(歴史)とかの専門教科がある。
自分が義務教育を受けていた時、流行り歌詞が国語の教科書にのっていた記憶がある。それが美しい文章だから載せようという文科省の考えなのだろう。おかげでそのひと昔前の流行りの歌を自分は歌えるようになった。
今の小学生と戦前の小学生の学力や思考力にはかなりの隔たりがあるのは間違いない。
修身
今の義務教育で言うと道徳にあたる科目が戦前の修身だ。
自分は今でも道徳はもっともいらない科目だと信じている。なぜなら、内容が空疎だったからだ。くだらない作り話を年端もいかない子供に読ませて、教師が求める答えを引き出すのが道徳の授業だったので、生徒にとっては無思慮で従順になる事を求められる授業でしかなかった。教師や大人に益はあっても、子供にはまったく益がない。だから教師が期待する答えを予想してその真逆を回答しつづけていた。
修身も、子供に期待する思考様式を学ばせるという点では現在の道徳と大差ないと考える。
しかし最大の違いは、教材が偉人伝になっていることだ。国史で紹介しきれない日本史の偉人の話を紹介し、それをもとに子供たちに偉人の思考や生き様を学ばせて考えさせようという点が現在の道徳と異なる。
たとえば上杉鷹山といえば、ケネディ元大統領が尊敬するとまで言った日本の偉人の一人だ。今この名前を知っている小学生が果たしてどれほどいるだろうか。少なくとも私は小学生の時、知らなかった。初めてしったのは、新渡戸稲造の武士道の中でだった。
かつての小学生はこの修身を通じて、日本史の様々な偉人を学び共通の話題とし共通の価値観を持つ事ができたのだろう。
今の義務教育の特徴は過度に縦割りになっている点にあると思う。昔の教科書はこうやってみるとかなり自由だ。
しかし本来学問はそのように縦横無尽なっているものだと思う。
国史
国史は物語性が強くなる。
戦後、日本、韓国、中国、アメリカの歴史教科書をスタンフォード大学が調べた事がある。すると日本の教科書がこれらの国の中でもっとも事実に忠実で、それ故か感情を排した記述になっているという結果が出た。(プロパガンダや嘘が混じっていないという事)
この戦前の国史は現在の歴史教科書と明らかにスタンスが違う。かつての教育が国民意識の醸成だったことを考えると、これは当然といえば当然のスタンスなのかもしれない。(あと、日本書紀も教えられていた)
私は、これに関しては歴史は単に歴史として感情を排して学ぶべきだと考えるので戦後のスタンスを評価する。
教育重視の姿勢は日本以外でも
日本は戦前、台湾と朝鮮半島をその一部としていた。台湾は多民族国家で、共通語と呼べるものがなかったので、日本語を共通語として教える事になった。しかし現地の教師や警官等の人々はコミュニケーションをとるためにも台湾語を必須のものとして学んだ。
日本語は既に様々な言語との対訳辞典があったし、明治に作られた様々な造語(経済とか化学とか)のおかげで、ありとあらゆる学問への道が開けていた。だから日本語を学ぶと、当時の最新知識や情報にアクセスできるという大きなメリットがあった。そのメリットは数世紀分にも及ぶ。今の人が英語を学ぶメリットよりもはるかに大きなメリットがあったのは間違いない。
朝鮮には李氏朝鮮があったので統一言語があった。しかし千年以上中国の属国だったので漢字文化を固守していた。ハングルは当初、世宗(14~15C)が下層階級でも中国語を正しく発音できるようにという事で「訓民正音」として発案したものだったが、中国の忠実な臣下であることを誇る朝鮮は、その普及を自ら何百年も食い止めていた。
そのハングルに目をつけたのが福沢諭吉とその弟子たちだった。朝鮮は厳しい階級制度があったせいで20世紀になっても識字率が一桁という絶望的な状況だった。しかし近代化のためには識字率の向上は必須条件だ。だから福沢と福沢の弟子たちによってハングルは「言葉」として体系化され、朝鮮総督府によって教科書が制定され、多くの人々に教育されて今にいたる。だから韓国がハングルを使えているのは一つは発案者の世宗のおかげであり、それを言語として体系化し普及させようとした福沢やその弟子たちや多くの教師たちのおかげでもある。韓国語には日本語由来の言葉が大量にある。昔の朝鮮の新聞は、漢字ハングル交じり、つまり今の日本語と同じような形になっていた。それを戦後、朴正煕大統領が漢字を排した事でハングルだけになった。(これは平仮名だけと同じ状態で、誤読が多く不便なので金大中が戻そうとしたみたいだが、できずに今にいたる)
韓国の過激左派が言葉の中からも日程残滓を排除する。と騒いでいたとき、きちんと学のある人達は、それでは韓国人は何もしゃべれなくなる!と反対した。それは言い過ぎではなく事実そうだからだ。
日本がかつて作った帝国大学のうち、台北大(台湾:国立台湾大学)と京城大(韓国:ソウル大学)は今もある。今はそれぞれの国で最高学府になっている。日本は自分たちが教育の力で幕末からの数十年でいっきに近代化を成しえたという自負があったので、自分たちの成功体験をもとに台湾や朝鮮も必ず自分たちのように発展すると信じて教育に力を入れて、現地の人々の識字率と知的レベルや生活レベルの向上に尽力した。その最後の形が各地域での大学の設立だった。
かつての大学生は将来社会の指導層になることがほぼ確実なスーパーエリートだった。もし日本人が台湾や朝鮮を一方的に支配するのなら、日本国内の帝国大学だけで十分だった。しかし、日本の目的はそれぞれの地域をそれぞれの地域の人々が自治し、各地域が自立して繫栄し、助け合う形にすることだったので、それぞれの地域に帝国大学を作った。
日本人のその理想を押しつけがましく、独善的と考える事もできる。各地域の自然にまかせて発展させるべきだったと考える事もできる。
しかし、それは後世の判断であって、当時のものではない。ただ事実だけを見ると、日本はすべてが良かったわけではないが、両国の近代化に大きな役割を果たしたと言えるのではないかと思う。
とくに、朝鮮の身分開放は歴史の奇跡ではないかと思う。日本は李氏朝鮮500年の厳格な階級制度をたった36年であとかたもなくなくしてしまった。しかもかつての権力者たちを殺さずに法と教育だけでそれを実現した。これは本当にすごいことだと思う。(大陸側ではかつての権力者らを一掃するためにまるで慣例行事のように大粛清をして、いろんな意味でフラットな状態にしてから支配するのに)朝鮮の奴隷制度は、世宗(14~15C)が奴隷の子は奴隷という奴隷世襲ルールを厳格化しているので、もし20世紀に日本によって階級制が廃止されていなければ韓国は今頃名前のない奴婢階級が全体の50%をゆうに超えていて、インドよりも身分制度が厳格な社会になっていたのではないかと思う。それによる貧困で、今では想像もできないほどの社会問題と社会不安がおこっていたのではないか。そうなると、海をわたってすぐの日本にも多大な影響がある。
日本が身分開放をして両班の子も奴隷の子も同じ学校でハングルなどの読み書きができるように教育した甲斐あって、奴婢階級からも良い仕事に就く人が大量に生まれた。それは朝鮮の抑圧されていたポテンシャルを解放し、大きな成長を促したという事ができるのではないか。
もちろん、もとは牛馬と同じ財産だった奴隷を日本に勝手に人に昇格されて奪われた両班たちにとっては、恨み骨肉だろうが…。朝鮮の未来のためにはプラスだったという事ができるのではないかと思う。
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