日露戦争で勝って、太平洋戦争で負けた理由 (考察)

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こんにちは、蒼生です。

日露戦争は日本にとって背水の陣、国家存亡をかけた戦いでした。そして多くの人々の予想を裏切り、世界史上類を見ない大勝利をあげ、アジア諸国に勇気を与えた戦争でもありました。

対する太平洋戦争(別名大東亜戦争。日本側が言っていた)は、同じく背水の陣、国家存亡をかけた戦いであり、日本は全力で戦ったにもかかわらず、日露戦争の時のようにはいかず、300万人という途方もない数の戦死者を生み出し、現在にいたるまで日本のトラウマになっています。

諜報、思想戦を重視した日露戦争

日露戦争では乃木希典や東郷平八郎が華々しい戦華をあげたことで有名です。二人は日露戦争のヒーローとして、日本のみならずロシアの南下に苦しんでいた地域の人々にとっても英雄となりもてはやされました。しかし、彼ら表舞台だけでは戦争は勝てません。太平洋戦争でも乃木や東郷と同じくらい見事な戦いをしていた人々は居ます。でも彼らは乃木や東郷にはなれませんでした。それは戦争で負けたからです。

日本が生んだ伝説的スパイ「明石元二郎」

(一人で20万の軍に匹敵すると言われた伝説的スパイ、明石元二郎)

日露戦争がなぜ途中で終わったかというと、

ロシアの中で暴動がおきはじめて、極東で戦争やってる場合じゃねえ、となったからです。

ここまでは日本の教科書でも教わります。でもそれをやった明石元二郎の名前は出てきません。そのせいで、日露戦争は運よく勝った、ロシアが中でもめ始めたから戦争が終わった、ラッキー位の印象を学生に与えてしまいます。

でも実際は、明石のようなスパイがロシア内部で工作活動をやっていたから起きたのです。あれは決して偶然ではなく、起こるべくして起きた事件でした。明石はロシア内部で王政に抵抗する社会主義者レーニンや貧民の救済を訴えるガポン神父(血の日曜日事件を計画)やフィンランドやポーランドやトルコといった様々な地域の抵抗勢力と関係をもち、情報を得て、時には金銭的支援もしてその活動を後押ししました。帝政ロシアの圧政に苦しむ人々は明石の支援を得て、そのエネルギーを暴動やテロやストライキへと変えていきました。

そしてロシアが戦争に集中できないような状況を人為的に作り出していったのです。

明石は戦後、役目を終えて帰国したとき、東京駅で高橋是清ただ一人に出迎えられました。一般国民は誰一人として彼の存在と彼がなした仕事の重さを知りません。明石は乃木や東郷のような表舞台にいる軍人たちとは違い、一握りの人だけが知る人物でした。このような裏で暗躍する優秀なスパイがいたおかげで、日本は日露戦争であの大国ロシアと引き分けに近い「辛勝」に持ち込むことができたのです。

日露戦争後、ソ連は日露戦争の敗因を良く分析し、明石のようなすごいスパイが一人いるだけで戦争には負けるし、国の中もめちゃくちゃにされて下手すると国体まで変わってしまうという事を学習しました。

やられたらやりかえす、倍返しだ「ゾルゲ事件」

(日本の実力者らと会い工作活動をしていたソ連のスパイ、ゾルゲ)

そしてソ連が日本に送り込んできたのがスパイ「ゾルゲ」です。ゾルゲは日本の中の有力者らと接触し、日本の政策に大きな影響を与えようとしたソ連のスパイです。しかし1941年にその目論見はばれて、多くの協力者たちと一緒に検挙されます。検挙された人々の中には近衛文麿のブレーンだった朝日新聞記者の尾崎秀実や西園寺公一などもいました。どれほどスパイが日本の中枢に入り込んでいたのかがわかるメンツです。ゾルゲは、日本の北進(ソ連にせめこむ)を阻止して、南進させるのが目的でした(英米仏と衝突する地域)。ゾルゲは多くの協力者らと共につかまり処刑されましたが、日本は彼の狙い通り南進し、とてつもない犠牲を払う事になりました。

日本の大本営中枢にもスパイがいたのではないか

(中央が諜報の神様と呼ばれた小野寺信)

日本の中枢にもスパイがいたのではないか。そう思わざるをえないことがあります。たとえば、戦争末期にソ連対日参戦というヤルタ密約の情報を大本営の中で握り潰し、首相にも外相にも天皇にすらも秘匿した人物がいるからです。

ヤルタ密約は最初ポーランドがイギリス経由で入手した情報でした。ポーランドはドイツに攻められ、イギリスにポーランド亡命政府を樹立します。ポーランドは地政学的な理由から大国の侵略を何度もうけてきました。1920年代前半もそのような惨禍の中、多くのポーランド孤児たちを救ってほしいと色々な国の大使館に申し入れましたが、どこからも拒否され、ダメ元で極東の新興国日本にも頼んだら、予想外に心よく引き受けてくれることになりました。

ポーランドの人々はその時は日本がどのような国か知りませんでした。しかし世界で唯一死の瀬戸際にあった大量の孤児を引き受けてくれた日本に深く感謝したそうです。日本にポーランド孤児たちがついてからも、日本側は子供たちの世話を献身的にしたそうです。この事実はポーランド国民に広く知られるところとなり、日本で関東大震災が起きた時は、あの時の恩を返すのはいまだ!と多くの義援金を集めて送ったりもしたそうです。(ポーランド孤児の生き残りの女性は阪神淡路の時に、被災した子供をポーランドに招待したりしている)そういうわけで、以来非常な親日国となったポーランドは、太平洋戦争時こそ、連合国側として日本と敵対関係になっていましたが、裏ではずっと日本に協力していました。

イギリス経由でソ連の対日参戦を知ったポーランド側は、この事実を日本に知らせないと日本が滅ぶ危険があったので、ストックホルム駐在陸軍武官だった小野寺信に伝えます。小野寺は急いでこの情報を大本営に連絡しますが、大本営の中でこの情報は何者かによって握りつぶされてしまいます。

(ソ連のスパイではないかと疑われている瀬島龍三参謀。大尉時代の写真)

今では瀬島龍三という人物が怪しいという事になっているようです。しかし、瀬島が実際に握りつぶしたという証拠はありません。(瀬島はその前に重要な情報を握りつぶした前科がある。そのため当時の様々な怪しい動きも含めて疑われている。)

ヤルタ密約を知らない日本政府は、ソ連に日露戦争時のアメリカのように仲介役になってもらおうと儚い期待を持ち続けることになります。戦後、小野寺信が鈴木貫太郎にこのヤルタ密約の事を言ったら、鈴木貫太郎首相は心底驚いたというのだから、情報一つが国の命運を分けてしまうという事がわかる話です。そして国のトップがこの情報を知らなかったばかりに占守島の戦いが起こり(樋口らが北海道へのソ連侵攻を阻止した最後の戦い)、満州方面での民間人大虐殺がおこり、千島列島は今でも占領されています。

調べれば調べるほど太平洋戦争は、現場は本当にがんばっているけれど、中枢に無能な人がいたり、スパイらしき人がいたりして、現場の努力がまったく実らない体制になっていたように見えます。あるブラックジョークで、世界で一番弱い軍隊は、中国の将軍と日本の参謀とイタリアの兵士。というものがあります。歴史を学ぶと本当に笑えない痛すぎるジョークです。無能な人が上に上がってしまい、有能だが癖が強い人が下位の役職だったり地方に左遷されてしまうという人事制度が、日本の弱さを作ってしまっていたように思います。

アメリカのように若くても優秀であれば、重要な役職につける。という実力主義の評価制度と体制であれば、あれほどの犠牲は生まれなかったのではと思います。

政治の失敗を軍事で覆すことはできません。戦略的失敗を戦術で覆す事もできません。そうした上流の失敗の積み重ねが各方面での極度の負担となり、日本の最終的敗因になっているように思います。

ましてや戦争決定にスパイが入り込んで決められていた場合、スタートが間違っているのにどうやって着地できるのか、という話になります。でも日本はあの戦争にトラウマがあるので、まだきちんと調査しきれていないし国民全体で考えないようにしているように見えます。あの戦争がどうして負けたのかは、絶対に分析しつくさなければならないものです。トラウマとして逃げ続けるには、あの戦争は犠牲が多すぎます。

終着点を最初から考えていた伊藤博文

(アメリカで外交工作を行った金子堅太郎)

伊藤博文はロシアと戦争をはじめた段階で、仲介役としてアメリカに入ってもらおうと考えました。「はじめた段階で」です。これが太平洋戦争と異なる点です。

そのため天皇の御前会議後、すぐに金子堅太郎を呼び、頭をさげて、なんとかアメリカの世論を味方にできるよう、アメリカで外交工作をしてくれと頼みます。金子はアメリカに留学した経験があり、セオドア・ルーズベルトとも知り合いだったのでその人脈を使って日本のために働いてほしいと言われます。金子は伊藤に頼まれてアメリカにわたります。

金子がアメリカについたときには、すでにロシア側の日本ネガティブキャンペーンがはられていました。その中で金子は巻き返しを図っていきます。金子は各地で講演したり、記事を書いたりして、多くのアメリカ国民の日本への印象をポジティブなものへと変えていきます。

セオドア・ルーズベルトに新渡戸稲造の「武士道」をすすめて日本への強い共感を引き出したり、ロシアの有力な軍人の訃報を聞いたときは、武士道にのっとって、敵を最大限に称える言葉を残し、多くのアメリカ人の共感と尊敬を集めます。

そうやって世論工作に成功し始めると、まったく売れなかった日本の外債が売れ始めます。日本は弱小の新興国だったので、大国ロシアにはかなうはずがないと思われていました。だから誰も買ってくれなかったのです。(これには高橋是清の努力も大いにあった)

最初日本はどうせ負けるからと仲介に慎重だったセオドア・ルーズベルトは金子の尽力もあって、一番いいタイミングで和平交渉の仲介に入ることになりました。このあとは小村寿太郎の粘り強い外交交渉のおかげもあり、なんとか日露戦争は終結します。

でも、もしアメリカが一番いいタイミングで仲介に入ってくれなければ、既に日本は国力つきて戦争を継続できる状態にはなかったので、長期戦で体力のあるロシアに負けていたかもしれません。実際、金子もそれを心の底から恐れていました。

こうやって見ると、日露戦争はトップに最初から明確なビジョンがあり、すべてのポストに的確に一級の人員が配置され、各ポストで各員が死力を尽くしたおかげで、史上稀に見るジャイアントキリングが起きたのだという事がわかります。

大東亜会議

太平洋戦争でも思想戦は行われました。まず東條は日米開戦にあたり、アメリカに住む日本人は祖国のため(アメリカ)に忠義を尽くすように発信しています。武士道を見せようとしたのかもしれません。アメリカでは日系人がスパイになるのではという事から、のちに多くの人が強制収容所に送られてしまいます。日本側は、これは人種差別だと非難し、日本は人種の平等のために戦っているのだと喧伝しました。

また思想戦の一つだとされるのが、大東亜会議です。参加国はビルマ、満州国、中華民国、日本、タイ王国、フィリピン、インドです。当時植民地だった国も参加し、列強からの独立を宣言し、相互支援する形となっていました。

植民地も含めアジア各国が対等の立場で協力する、というメッセージは、これらの国を植民地にしていた列強にとってはかなりのインパクトがあったようです。これはアジア各国にとって歴史的会議でした。また、日本人の中にあったアジアのために戦おうという義侠心に訴える事もできました。

しかし、日露戦争の時のように戦争を有利な立場で終わらせようとするような効果は期待できません。逆に対立を鮮明にする効果はあります。

ポーツマス条約の時のアメリカのような仲介者を、当時の日本は見つけられなかったのでしょうか…。でもよく考えると、人種平等やアジア各国を植民地解放するというのは、当時の列強に喧嘩を売りに行くようなものです。見つかりそうもありません。。

太平洋戦争は開戦時から、国力の差を知っていた軍人らは短期決戦を目指していました。そして最初は勝っていました。しかし日露戦の時のような外交工作が全然できていなかったので、ずるずるとそのまま戦い続けてしまいます。戦争末期になっても一撃講和論を唱える人々はたくさんいました。一撃ダメージを与えても、ポーツマス条約の時のように仲介に入ってくれる国がなければ不可能だと、どこかの段階で誰か言わなかったのかと素朴な疑問をもっています。

政治の不作為のように見えてなりません。

話は戻り、大東亜共栄圏という理想は、短命ながら一時とても強い光を放った理想でした。今村均陸軍大将や戦後も現地に残ってインドネシアやビルマやインド独立のために戦った多くの日本兵はその理想を強く持っていたのだと思います。彼らは純粋にその理想を信じ、現地の人々に軍事訓練をし、時には最前線で戦ってアジアのために命を捨てました。その結果アジアの植民地はのちに自主独立を勝ち取っていきます。

でも政府レベルでは、アメリカに正当性を主張し思想戦で勝つための戦略の一つでした。しかしその思想戦においても、アメリカの方がはるかに上手で、日本は負けてしまいます。正しいか正しくないか、を日本人は伝えがちなのだと思います。金子堅太郎の時は、愚直にそれをやってうまい事いきました。でも相手にどう伝えるか、いかに感情をゆさぶるかは、ことの善悪よりもはるかに大事なことのようです。

一貫したリーダーがいなかった太平洋戦争

戦争は国家の非常時です。日露戦争の時は桂と西園寺が交代で首相をしていました。そして、裏では枢密院議長にもなっていた伊藤博文や山縣 有朋などが一貫して指揮をとっていました。あの頃は明治政府を樹立した強いリーダーシップを持つ人々がまだ生きており、互いに協力しあっていました。

 

でも太平洋戦争は違います。まず近衛が日米開戦路線の口火を切り、車のハンドルが効かない状態にしてすべてを投げ出す形で突如辞任しました。(ゾルゲ事件で死刑になった尾崎は近衛と近かったこともあり、近衛自身も疑われていた。近衛の側近の風見章は社会主義者で戦後日ソ協会副会長にもなっている。そのため、近衛は操られていたのではないかともいわれている。)

そのあと、東條英機が首相になります。東條は主戦派でしたが、天皇の心が戦争回避だと知って、態度を180度変え日米衝突回避のために尽力します。しかし短すぎる時間の中では何もできず、近衛が敷いた戦争突入の路線に乗ってそのまま開戦してしまいます。東條は伊藤博文のように最初から戦争をどこかの段階で手打ちにする、というビジョンをもてずに、ずるずると戦い続けてしまいます。

そしてサイパン島玉砕の責任を取る形で辞任します。そのあと短期間だけ小磯國昭内閣ができますが、すぐに終わってしまい、あとを継いだのは2.26事件で襲撃されて生き残り、天皇の信頼が厚い鈴木貫太郎です。終戦工作のために、天皇から懇願されて老体に鞭打って首相になります。

太平洋戦争は戦争の責任者がコロコロ変わり続けているせいで、一貫したビジョンがなく、そのせいで戦争が悪化していった面があります。戦争のような危機的な場面で最高決定責任者が頻繁に変わるのはそれだけでリスクです。しかも終戦を任された鈴木貫太郎以外には何のビジョンもありませんでした。逆に、鈴木貫太郎はよくあの末期的な状況で日本の流れを急停止させられたな、とつくづく思います。(そのせいで恨みを買って家を焼かれた)これには阿南陸軍大臣のような人格者が自死をもって陸軍の暴発を防いでくれたおかげもあり、日本は敗戦を受け入れることになります。

戦争は始めるよりも、終わらせる方がはるかに難しい。

それがわかっていたから伊藤博文は最初の段階で仲介役としてアメリカに入ってもらおうと考え、金子堅太郎を派遣して外交工作をしています。太平洋戦争ではそうした終戦工作があまりにも蔑ろにされ、鈴木貫太郎の時にやっと始まった感があります。

 

  • 諜報の弱さ、
  • 優秀な人よりも当たり障りのない人が出世してしまう仕組み、
  • 外交工作の弱さ、
  • リーダーがコロコロ変わる問題。

これが太平洋戦争の敗因だったのではと思います。(他にも陸軍と海軍が協力しないとか、大日本帝国憲法の問題とかもあるけれど)

そしてこの問題は今もすべて、そのまま残っています。特に諜報に関しては今は専門機関がないので、戦前とは比べ物にならないほど弱体化しています。韓国では野党の議員が北朝鮮と通じていたという事で大問題になっていますが、それは調査機関と裁く法があるから問題になるのです。日本にはそれがないので、実際のところどうなっているのか皆目見当がつきません。実は第二第三のゾルゲが暗躍しているかもしれません。

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