「いただきます」が消えた学校。日本らしさを作ってきた無自覚の宗教教育

round stainless steel bowl with cooked meat and vegetables考え方
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こんにちは、蒼生です。

最近、外国人観光客の度を過ぎた迷惑行為が多く問題になっています。中には中国の企業からスポンサー料をもらって、神社の階段を自転車で駆け降りるという礼拝所不敬罪を平気でやる外国人までいるようです。

逮捕して罰金または懲役に処して、二度と入国できないようにすべきです。

それとは別に、こんな話を最近よく聞きます。

  • お米を最後の一粒まで食べるなんて貧乏くさいし下品だからやめろという人が現れる。
  • 給食費を払っているのに「いただきます」と言わせるな、と親からクレームが入って学校が応じてしまう。
  • 飲食店で客がお店の人に「いただきます」というのを下品だという人が現れる。

これらの話を聞いて、まず思った事は、本人または親が「儒教の国の人」なんだろうな、という事と、

次に日本人が当たり前にやっているこれらの事は、宗教的価値観が土台にあって、今までは同じ日本人同士で価値観の共有ができていたが、

外国ルーツの人が多くなってきたせいで、価値観が共有できなくなってきているという事です。

儒教の国の人というのは、具体的には中国と朝鮮半島出身の人の事です。(中国は人民共和国になって知識人を大粛清したので儒教を重んじる事すらなくなっているかもしれない)

儒教では、上下をとても重んじます。上下関係を強調することで秩序を作るので、自分より格下だと思う相手に対してはとても傲慢にふるまいますし、そうすることで上下の別をわきまえさせようとします。それが中華思想と相まって、より弱い国、弱い存在に傲慢にふるまい、上下の別をわきまえさせ、秩序を作ろうとしています。

儒教の国では、性別や年齢や立場や仕事にも上下の別を作るので、掃除や配膳の仕事を下級とみなす人も多く、彼らに礼を言うなんておかしなことだと思っています。下の者に上の者が礼を言うと、上下関係が崩れてしまうからです。

日本でも、徳川が社会の安定化のために一時的に儒教を取り入れましたが、それよりはるかに長い歴史を持つ神道と仏教の価値観が日本にはあったので、便宜上取り入れただけの、儒教の悪しき思想が日本国民に浸透することはありませんでした。

神道は命への感謝と敬意を核にする宗教

神道は、「アニミズム」と簡単に説明されがちです。

でもアニミズムというのは、一神教文化圏が、多神教を見下して、石や木をあがめる原始宗教という意味で使う言葉なので、日本人がこの言葉を使うのは、あまりふさわしくないと思います。

キリスト教がその教えの核に「隣人愛」をすえるように、

神道は「命への感謝と敬意」を中心的価値観にすえる宗教です。

だから残虐の限りをつくした蒙古兵でも、戦って死んだら、平等に命を弔いますし(儒教国のように、わざわざ遺体損壊して復讐したりしない)

反捕鯨団体が怒るクジラ漁でも、生きるために命をいただいたあとは、神社までたてて命を弔います。

この「命をいただく」という発想は、もしかしたら日本人固有のものなのかもしれません。

日本人はクジラと人間の命を対等に考えるから、漁でクジラを捕獲した後、その対等の命を無駄なく使おうとし、最後は弔いますが、そもそも対等だと思っていない外国では、たとえばかつてクジラの油をとるためだけにクジラ漁をして、油だけとってその体は捨て置いた事からもわかるように、人間以外の命を「資源」とか「材料」とか「利用価値の有無」でしかとらえていません。

聖書でも、使徒が腹が減ったときに、神様が天から生き物をプレゼントして好きに食えというシーンがあるのですが、一神教では、人間以外の生命は、人間のために作られたもの、利用すべき対象。としかとらえられていません。

共産圏ではそもそも宗教は悪なので、お金の価値という共通認識しかありません。全てを金銭的価値に置き換え、命はモノになります。

世界観が全く違うのです。

ここに齟齬が生じ、なんで金を払ってるのに「いただきます」とか乞食みたいなことを子供に言わせるんだと怒る親が出てきたり

米の一粒まで食べるなんて、貧乏くさい、育ちが悪い、下品だ、という人が出てくるのだと思います。

日本では、天皇陛下までもがお田植をして稲刈りをして神様にお米をささげてから大切に食する国なので、米の一粒まで大切にいただきます。

(共産主義者は原始共産制の理想は日本にあるのに、ここは完全無視する)

命を大切にすることは、卑しい事ではなく、むしろ尊いことだというのが日本人の価値観です。

 

神道の神様への尊称の一つに「みこと(命)」があります。

このはなさくやひめのみこと、等という形で使います。高貴な人に対しても使います。

天壌無窮の神勅では、天照大御神が八咫の鏡をわたしてこの鏡を私だと思い祀りなさいというシーンがあります。

鏡を見ると、見た人の姿がうつります。

今では多くの神社で鏡をご神体としてまつり、神社によっては参拝客はその鏡を見つめながら祈る事になります。

これはよく言われる事ですが「かがみから我をぬけば神になる」ため、参拝客は祈る事で我をぬいて、本来の姿になろうとします。

その、すべての命が神である、という感覚は、唯一絶対の神をまつる一神教とは違います。でもそれがあるから、日本人は、敵である蒙古兵の御霊も、亡くなったら大切に供養し、クジラやその他多くの生きるために奪わなければならなかった命に対しても大切にします。

命に上下をつけず、対等に扱い、尊ぶのが日本人の考え方です。

でもだからこそ、生きるためには食事を通して命をいただかなければならないという発想になります。

食事の時に、「いただきます」というのは、主に命に対していっている言葉です。

命をモノとみなす一部の人には、それは乞食のように見えるのかもしれません。

でも、これから説明する通り、実はとても深い意味があります。

五観の偈と掃除

五観の偈とは、食前に唱える食する心構えの事です。

禅のお坊さんが食事の前に唱えます。

  • 一 計功多少 量彼来処 : 功の多少をはか来処らいしよはかる。
  • 二 忖己德行 全缺應供 : おの徳行とくぎようの全欠をはかってに応ず。
  • 三 防心離過 貪等為宗 : 心を防ぎとがを離るることは貪等とんとうしゆうとす。
  • 四 正事良薬 為療形枯 : まさ良薬りようやくを事とすることは形枯ぎようこりようぜんがためなり。
  • 五 為成道故 今受此食 : 成道じようどうためゆえに今このじきを受く。

(意訳)

一、この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をいたします。

二、自分の行いが、この食を頂くに価するものであるかどうか反省します。

三、心を正しく保ち、あやまった行いを避けるために、など三つの過ちを持たないことを誓います。

四、食とは良薬なのであり、身体をやしない、正しい健康を得るために頂くのです。

五、今この食事を頂くのは、己の道を成し遂げるためです。

一時、これを暗記して毎食唱えていたことがあるのですが、長くて結局「いただきます」になりました。

日本の学校で、子供たちがいう「いただきます」には、これ程深い意味があります。日本人の多くは、これをなんとなく理解していますが、別の文化圏から来た人達や、本当に親が日本文化から切り離された人の場合、子供はこの深い言葉の意味が分かりません。

だから、先生がちゃんと教える必要が生じているのではと思います。

「いただきます」という言葉は、決して乞食の言葉ではありません。様々なものへの感謝と、修身のために唱える言葉です。

 

また、日本の学校では、子供が掃除をします。他の国では、学校の掃除は専門の人に外注するそうです。

外国の中には、掃除を卑しい、下層の仕事だと考えるところが多くあるそうです。

日本の場合、掃除をそのように考える人はあまりいません。掃除をしてくれている人に出会うと、ありがとうございます。と思う人がほとんどだと思います。

神道では、日本の神は綺麗好きなので(日本は高温多湿で、綺麗にしないと雑菌が繁殖するから)、掃除は神へのご奉仕ですし、仏教では、掃除は修行の一つなのでとても良い事です。

だから、教育の中に日本では掃除が入っています。

これが日本式教育という事で、エジプトでそういう事をする学校まであるそうです。

でも、日本では今、一部の学校では、日本人より外国人が多い所が増えてきています。

彼らに、こうした日本の価値観をどうやって教えていくか、文化の壁をどうやって乗り越えていくかは今後本当に問題になっていくと思います。

うるさい親の場合、子供に「いただきます」と言わせるな、と学校にクレームを入れたりして、その主張を通してしまいます。

日本は長い歴史の中で、高度な道徳を生活の中に落とし込んできた

日本人の多くは、無宗教だと思っています。

でも日本人の生活の中には、かなり宗教的なものが入り込んでいます。

これが宗教の最終形態で、誰かが教えたり、または学んだり、戒律を守ろうとしなくても、宗教的な道徳観が生活の中に入って、無自覚のうちにとても道徳的な生活ができるようになっています。

これが日本の良さを作っている理由の一つだと思うのですが、外国の人が多くなってきた今、もう一度言語化し、誰かが教えて、これが日本の文化であり道徳です、と説明しなければならないのではと思います。

また、それに反抗する人達に対しての対処も考えないといけないのではと思います。

「いただきます」をやめさせた親のクレームに、学校は対抗すべきだったと思います。

最近、多文化共生等といって、なぜかハラル給食をだす公立校があるそうです。完全なハラル食は日本では難しく、訴訟リスクを高めるだけです。それに、これは他宗教徒への人権侵害でもあるので、即刻やめさせるべきですし、禁止すべきです。宗教上食べられないものがある子供は、弁当持ってこい、で済む話です。

多文化共生という言葉と施策は、意識高い系ビーガンと同じで、誰のためにもなりません。

完全な自己満足の世界ですし、ビーガン以外の人権を踏みにじっています。

日本は今まで、神道と仏教と、わずかのキリスト教だけでやってきましたが、

政府が急激に移民を入れる政策をとっているので、それによる文化的混乱が起こっています。それをどうやって乗り越えていくのか考えないといけません。

でないと、軍を投入して移民集住区域を鎮圧しにいったり、500万払うから祖国へ帰ってくださいと移民にお願いしているスウェーデンのようになります。日本は、かつて徳川がそれをやってくれたからその後国内が安定したのに、今大量の移民を入れたら、もう一度同じ事をしないといけなくなります。(移民を入れると秩序が壊れて時代がさかのぼる)

移民を入れるなら、移民には徹底した同化政策を行うべきです。

それができない場合、やるべきではないし、帰化の取り消しもちゃんとできるようにすべきです。守るべきは、勝手に日本に来てわがまま勝手にする人の権利ではなく、日本社会の秩序であり文化であり伝統です。勝手に外国から来て傍若無人にふるまう人には、母国へお帰りくださいと言わないといけません。

政府が経済界の要望で見切り発車ですすめる移民政策は、今の段階では、何も対策ができてないので、本当にやめるべきだと思います。

「いただきます」という言葉一つからも、そんな事を考えました。

 

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