沖縄 二泊三日旅行記 一日目

旅行記

 

こんにちは、蒼生です。

突然まとまった時間ができたので、沖縄に2泊3日で旅をしてきました。沖縄は以前も何度か行った事があったのですが、観光はほとんどできず、那覇市内をうろうろするくらいしかできなかったので、今回は沖縄の南エリアにしぼって色々見てきました。

一日目

戦跡:海軍司令部壕

神社:波上宮

県庁前の那覇市歴史博物館

二日目

世界遺産:斎場御嶽

自然・歴史:ガンガラーの谷

三日目

平和記念公園、歴史資料館

世界遺産:識名園

沖縄は47都道府県の中で唯一、鉄道がない

私は車の免許を持っていないので、沖縄にはモノレールしかない!という事を知って移動手段に頭を悩ませました。(しかもモノレールで移動できるのは那覇市内の一部地域のみ)沖縄で那覇以外に行くときは絶対に車の免許が必要です。車を運転できない場合、バスかタクシーでの移動になります。バスは本数が少ないうえに普通に遅れます。(十分待って来なかったからあきらめた事もあった。その数分後に来てたぽい)

しかもバスの場合、車で移動するよりもかなり時間がかかります。自家用車等で移動する場合15分とかで移動できる距離を、バスで移動する場合、色々なバス停にとまらないとけなかったり最短ルートで行けなかったりするので、同じ目的地に一時間半かけて移動する、なんて事になります。那覇市内ならタクシーがすぐに見つかりますが、市外だとタクシーが来るのにも相当時間がかかったりします。

だから、沖縄に旅行するときは運転免許とレンタカーがあったほうが絶対に便利です。ない場合は本当に移動に苦労します。

なんで沖縄には鉄道がないのか

沖縄には那覇市内のモノレールしかない、という事実にショックを受けた自分は、なんで沖縄にだけ鉄道がないのかまず気になって調べてみました。というのも、日本人は鉄道が大好きで、台湾でも朝鮮でも、とにかく鉄道を作りまくる人々だからです。(そして台湾朝鮮では現役で使われている)沖縄は南北に長いので、鉄道のような大量輸送が可能になるインフラを整備しないと、物資の運搬や人の移動でかなり不便になります。

作らない理由がない、それなのになんで無いのか。調べてみたら、戦前はあった。という事がわかりました。

沖縄県営鉄道として、大正3年に与那原ー那覇間が開通し、昭和の時代には嘉手納から最南端の糸満まで線路が伸びていたようです。この鉄道は沖縄県民の主要な交通機関として利用されていたようです。

 

しかし、太平洋戦争で「鉄の暴風」と呼ばれるアメリカ軍による猛烈な攻撃の結果、この鉄道網も木っ端みじんに破壊されてしまいます。ここまでは空襲で焼かれた本州と同じ状況ですが、沖縄の場合その後27年間にわたる長期にわたってアメリカに占領され、日本と切り離されてしまいます。この27年の間に日本本土では破壊されたインフラがどんどん復旧されていきました。

占領下の沖縄でも、破壊された鉄道を復旧してほしいとアメリカ側に沖縄県民を代表して志喜屋孝信・沖縄民政府知事からも陳情を行ったようです。しかし、その意見が採用されることはなかったようです。アメリカは鉄道よりも車で移動する社会だったので、沖縄にとっての鉄道の重要性を理解しなかった可能性もあります。

そして1972年にやっと沖縄がアメリカ占領下から日本に復帰します。でもその当時、国鉄は累積赤字のため、沖縄に鉄道を敷く余力がなかったようです。それでも沖縄県民の鉄道復活願望は強く、鉄道は無理だけどモノレールならという事で、ゆいレールというモノレールが2003年にようやく開通しました。

しかしモノレールで移動できる距離はとても短いので、沖縄縦断ができる鉄道があればどんなにいいだろうかと思います。自分のように免許を持たない人間(国内・国外)が観光に来た時はもちろん、交通渋滞もかなり緩和されるのではと思います。(沖縄の人口密度は全国8位)

また、鉄道のようなインフラが整備されれば、人とモノの移動が容易になり、沖縄の産業はもっと伸びるのではと思います。

戦前沖縄で鉄道を運営していた「沖縄県営鉄道」は事実上消滅したものの、まだ廃業届が出されていないそうです。今後新しい形で鉄道のようなインフラが整備されればと、沖縄に行って心底思いました。

(写真は那覇駅跡。街の中に突然現れる戦跡。沖縄にはこういうものが至るところにある)

一日目

旧海軍司令部壕

空港からほど近い、小高い丘にあるのが旧海軍司令部壕。行くまでの間、タクシーの運転手さんが、かつて那覇の空港(旧名:小禄空軍基地)を守るためにここに海軍壕ができたと話してくれました。全長450メートル。その一部300メートルが復元され一般公開されています。地上から階段で地下深くに降りていくと、地下水が染み出しているせいか湿っぽい空気に変わります。

  

ここに、大田實少将が沖縄方面根拠地隊司令官として佐世保から赴任します。

当時ここに軍人約一万人と避難してきた民間人がひしめきあっていたそうです。外に出ると危険なので、排せつも中でしていたらしく、異臭が立ち込めていて、攻撃がやむ夜に外の空気を吸う時が生きていると実感できるときだったそうです。

1945年5月24日ごろ事件が起きます。沖縄守備軍司令部が大田少将に連絡。首里から南部摩文仁へと撤退する際に”沖縄守備軍の撤退を支援せよ”と命令したのに、大田少将は”海軍司令部も摩文仁へ撤退せよ”と勘違いして撤退準備を始めます。大田少将は壕を守るために使っていた重火器を破壊して撤退を始めますが、その後撤退命令が勘違いだったとわかります。そして持ち場に戻るようにとの命令をうけて、5月28日、すぐさま小禄へと引き返して防戦することになります。

これを知り、なんでこんな事をしたのかと謎でした。ただでさえ貴重な重火器を破壊して撤退したあと、もう一度海軍壕に戻った海軍はろくな武器を持たず、夜な夜な兵士たちは槍突撃を行っていたというのです。こういっては悪いのですが、あまりに無能ではないかと思いました。しかし調べてみると、これも陸軍と海軍が犬猿の仲だったせいで、海軍側が重要な会議に呼ばれず、意思疎通が十分に行われていなかったせいで起こった勘違いだったようです。

国家の非常時においても、セクト主義で相手を排斥しようとしていたという事実に唖然とします。(そもそも海軍の暗号は早い段階で米側に解読されていて、陸軍は解読されていなかったのだから、ちゃんと陸海が協力できていればこんな事には…と考えずにはいられない)

そして6月4日牛島満中将より今度こそ摩文仁への撤退を命じられますが、大田少将は拒否。牛島中将は”武運尽きて玉砕するときは陸軍も海軍も一緒である”と打電し撤退をさせようとしますが、大田少将はこれに従いませんでした。

大田少将は最後に、「沖縄県民斯ク戦ヘリ」という電報を海軍次官あてにうち、「沖縄県民はこのように戦い抜きました。県民に対し、後世、特別のご配慮を頂きたくお願いします」と送り、幕僚らと共に自決しています。これはひたすら沖縄県民への思いをつづった感動的な内容なのですが、軍人としてどうなんだろう。。という腑に落ちないものが残ります。

良い人だけど、でも軍人としては…。という事をどうしても強く思ってしまいます。大田少将が牛島満中将の撤退命令を拒否したことで、経験の浅い、ろくな武器を持たない兵士たちは、大田少将の命令で玉砕を余儀なくされています。そして、日本軍の戦力の分散と減少も起こっています。

日本軍には、良い人だけど、軍人としては…という人が上層部にいて、作戦を軽視して窮地に。。という事が多々あって、これは人事制度や評価制度の問題なのだろうか、と思ってしまいます。

(他に陸軍八原大佐の例がある。反射面陣地を駆使して寡兵でアメリカ軍の大軍を迎え撃ち善戦した八原博通大佐は、寝技戦法という持久戦でアメリカに厭戦気分を作ろうとして、途中まではうまくいっていたのに、上層部から突撃しろ、という戦略も糞もない命令を受けて従ったら、多くの兵士を失って持ちこたえられなくなった。「真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である」ナポレオン)

(この穴から槍をもって日本兵が夜な夜な突撃したそうです。3枚目)

この旧海軍壕に行って驚いたのが、外国の人が多かったことです。英語とフランス語が聞こえてきました。展示の中には動画もあったのですが、最前列で食い入るように見ていたのは外国の方でした。普通の観光ルートには絶対上がってこない場所なので、どうやって調べてきたのだろうと不思議に思いました。もしかしたら、祖先がこの地で戦った人なのかもしれません。

 

慰霊碑と頂上からの景色。この日はとても空が青くて綺麗でした…。

 

波上宮(なみのうえぐう)

断崖絶壁の上にある朱色の神社。沖縄では「なんみんさん」と呼ばれて愛されているそうです。崖の下は海水浴場になっていて、泳ぐこともできます。こういう美しい神社なのですが、この写真はドローン等の空撮でないと撮れません(Wikipedia)。現実はこれです。(2枚目)

 

波上宮のすぐそばにあるビーチ。監視員もいてシャワーもある。沖縄は9月末でも暑いので、海水浴できる。沖縄は海が青い。

 

波上宮は、沖縄の中でも最も社格の高い神社だそうです。沖縄らしい植物が生い茂っています。波上宮も、戦争中に木っ端みじんに破壊され、今あるものは再建されたものです。

驚いたのは、昭和天皇の沖縄を思う御製と明治天皇の5か条のご誓文の看板があったことです。天皇の御製(和歌)を目立つところに飾っているなんて、私は明治神宮(明治天皇が祀られている神社)でしか見たことがありませんでした。(世界中は兄弟だと思う、という明治天皇の和歌を飾ってトルコ地震への寄付を募っていました。)

昭和天皇は生きている間に沖縄に行きたいと願っていましたが、長い間アメリカ占領下だったのでいけず、日本にやっと復帰して皇太子殿下(現上皇陛下)がひめゆりの塔に行かれた際は火炎瓶を投げつける者が現れて、治安上の問題で行けず、それが亡くなるまで一番の心残りだったそうです。その沖縄でこんな風に昭和天皇の御製を目立つところに石碑にしてまで飾っていることに驚きました。神社側の並々ならぬ強い意志を感じます。

この神社に行ったときは、ちょうど台湾の観光客の集団と思われる人々がいました。(言葉と態度でわかった)とてもマナーがよく、子供が騒ぐと大人が注意したり、参拝している人がいたら、後ろに並んで順番を待っていました。彼らは、ここが聖域であり、沖縄の人々の信仰の場であることをよく理解しているようでした。そして、神道文化という彼らにとって馴染みがないものに対してもちゃんとリスペクトしているようでした。

しかもこのツアーのガイドがかなりしっかりしていて、参拝するときは全員を呼び寄せて、神道式の参拝の仕方をしっかり教えていました。お辞儀の仕方から手の合わせ方という細かな部分までしっかり教えていて下手な日本人より詳しそうでした。ツアー客らはそれを真似て各々参拝していました。

昭和天皇の御製 「思はざる病となりぬ 沖縄をたづねて 果さむつとめありしを」

那覇市歴史博物館

つづきは本編で↓

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