2022年は7月の山上容疑者による安部元総理銃撃事件によって、旧統一教会の存在と信じられないほどの悪行の数々が公になり、社会問題となりました。
反日的な教義や霊感商法による高額献金の問題のほかに、人身取引に近い教会による養子縁組やもう一つの拉致事件ともいわれる合同結婚式、ステルス侵略のための議員への接触や支援。そして外為法などの法の網をかいくぐって行っていた北朝鮮支援など。本当に信じられないような悪事がどんどん出てきました。こんな漫画みたいな悪の組織が本当に存在して、しかもそこに安部家三代や自民党の政治家たちが長年庇護を与えていたなんて、いまだに悪夢を見ているようです。オウムは悪のカルトとして有名ですが、それと同じくらい酷いカルト集団(しかも外国勢力)に庇護を与え続けた政治家たちは国賊・売国奴の誹りを免れないと思います。
日本でも外国勢力のこうした影響を排するための法整備を進める必要があると思います。でないと、アメリカのフレーザー委員会が発表したように、有権者がアメリカ人の議員を信頼して応援していたはずなのに、その人は韓国に便宜を図る人だった…。なんてことにもなりかねません。
番組でも言われている通りこの教団は韓国に本部があり、朝鮮第一主義です。日本信者の献金を北朝鮮に寄付した実績もあるので(文鮮明が4600憶寄付やロシアの潜水艦供与など)、日韓でとりくむべき国際問題です。北朝鮮に経済制裁をしているはずが、統一教会ルートでお金が流れているのでは意味がありません。
カルト問題は教育問題でもある
でも統一教会問題がこれほど日本ではびこった背景には、日本の公教育の問題もあるように思います。
統一教会の信者は真面目で善良な人々だといわれます。
カルトに関してはドイツでは宗教教育を行っていたから被害が少なかったが、それを行っていなかったフランスでは被害が広がったとされています。人間は不安定なもので、いいときもあれば悪いときもあります。自分の力ではどうしようもないときもあります。宗教はそうした人生のアップダウンに寄り添う心の支えとして生まれ、連綿と継承されてきた側面があります。けれど、宗教に対して無知な場合、その空白にカルトが忍び寄ってきます。
私は教養としてキリスト教の聖書は読んだことがあったので、統一教会の異様さにすぐに気づきました。でも知らなかったら、これをキリスト教だと信じてしまうのかもしれません。旧統一教会は聖書を自分たちに都合がいいように切り取って利用するからです。その点でも宗教的な知識は物を考えたり世界を見るベースとして必要だと思います。
伝統宗教の知識が少しでもあれば、統一教会の教義がいかに狂っているか、本来のキリスト教からかけ離れているかすぐにわかります。(ちなみに統一教会は全キリスト教会から異端認定されていて、統一教会被害者支援を行うキリスト教団体もあるほどです)
でも日本は宗教教育をしないので、日本人の多くは宗教に対して無知です。そのせいで統一教会のようなカルトの餌食になってしまう人が多くいるのかもしれません。宗教、特に世界三大宗教は、それぞれ多くの信者を抱えています。宗教はあらゆる分野に長年にわたって影響を与えてきました。それは生活や学問や芸術政治まで様々です。そのためそれぞれの信じる宗教でものの考え方が全く異なるという事も自然におこってきます。日本には、宗教をいまだに危ないものだと思っている人も多くいますが、知らないことのほうがはるかに危ないうえに、相互理解にも支障をきたします。
宗教について、学ぶのはもしかしたら大変なことなのかもしれません。
でも最低限の知識、すくなくともカルトにたいする防衛的な知識くらいは持っておいたほうがいいのではないかと思います。
韓国のプロパガンダを代弁する大学生
先日某大学の国際政治を学んでいるという大学生が突然日本の戦前の罪について主張しはじめたのでびっくりしたことがありました。韓国人コミュニティと仲が良いらしく、そこでの主張をうのみにしたのか、もしかしたら大学でそう教えられたのか分かりませんが、韓国のプロパガンダを日本人の国際政治を学んでいる人が代弁するなんて喜劇です。話している内容が”事実としておかしい”と思ったので何点か歴史的事実に基づく質問をしたら、相手は言葉につまってしどろもどろになっていたので、これは彼女が考えて主張していることではなく、だれかに吹き込まれてそう代弁しているのだとわかりました。
旧統一教会は日本人の歴史的無知に付け込んで、その善良さと贖罪意識を利用して多額のお金を巻き上げてきました。
無知とセットになった善良さは鴨葱です。無知とは自分から何かを考えたり情報を仕入れようとしない状態なので、悪い人達はその空白地帯にいくらでも自分たちに都合がいいことを詰め込んで洗脳することができます。そういう意味でも”知は力なり”です。知識は防御にも攻撃にも使えます。
そもそも韓国は独裁政権からはじまった国なので、自分たちの苛烈な支配や汚職を覆い隠すために、日本はもっと酷かったという事を国民にむけてアピールし自分たちの支配を正当化させるために国民に徹底的な教育を行う必要がありました。(日本が多くを奪ったとする”七奪”など。実際は統治時代に日本が巨額のインフラ整備をして平均寿命や人口が大幅に伸びたり今も使われるハングルが復活したりなど事実とは異なる。しかも王政を排したのは両班出身の李承晩自身。つまり現在の反日は李承晩によって人工的に作られたファンタジーに基づいている)だから戦前を知らない今の韓国人がそのプロパガンダを鵜呑みにして、事実と異なることまで信じてしまうのはある種仕方ありません。韓国では統治時代は良かったと発言した老人が戦後に生まれた三十代の男に殴り殺される事件が起こったりしているので台湾と異なり親日発言は命がけなのでしょう。ポルポト時代に子供が自分の親を密告したのに似て、そこには純粋な狂気があります。だから独裁者は皆教育を重視します。どこの国の国民もその国の政府を信じています。定期的に起こる反日アピールも、政治的不安定さから政権の支持率が下がったらとりあえず反日アピールをして国民の目を内から外にそらそうという手垢のついた行動であるという事を知っていれば、これは日本の問題ではなく韓国側の問題なのだとわかります。
韓国は反日カードによって、ある意味日本に長年依存しています。自立した国々ではありえないことを行っています。
その精神的な依存は、日本の問題ではなく韓国の問題です。
旧統一教会はATMのパスワードのようにそれを使っていました。
それが可能になるのは、日本人が自国の歴史に対して無知だからです。無知なのは、きちんと教えていないからです。
または、歴史の見方を知らないせいで起こっています。
(両班とは李氏朝鮮時代の貴族階級。労働を忌み嫌い、平民から容赦なく略奪するさまから世界一傲慢な貴族とか吸血鬼と外国人に記述された。他に常民と賤民という階層があり、日本統治時代に身分開放が行われて上下の別がなくなり白丁という被差別階級も教育を受けられるようになった。すると両班たちがそれに強く抵抗して抗議したらしい。被差別層に教育を与えることすら許せないほど強い差別意識と階級制があったことがわかる。平等化政策は身分が低い人々にとっては良い結果をもたらすが、上の階級の人々からは様々な特権をはく奪していくものなので強い恨みを買う)
義務教育は、歴史の多角的な見方を教えていない
歴史とは、感情を排した事実の羅列として見られるべきものです。
A国とB国では同じ事実に対してもとらえ方が違います。英国と米国では独立戦争に対する記述のスタンスが違うのは当然なことです。
16世紀に朝鮮出兵を行った豊臣秀吉は、朝鮮では未だに悪者だそうですが、日本では庶民から天下人になった人物として関西では特に尊敬されています。秀吉の神社もあるほどです。
他の例でいうと、モンゴル帝国を築いたチンギス・ハンはモンゴルの英雄ですが、大陸を中心に多くの国々を侵略し滅ぼしてその版図を広げました。その子孫のフビライ・ハンは日本にも侵略しようとしました。あの蒙古襲来です。この結果鎌倉幕府が弱体化してしまったのですが、これを根にもつ日本人はおそらく皆無です。
何がいいたいかというと、歴史は歴史だという事です。自分が経験したことならいざ知らず、自分が経験もしていないことをいつまでも根に持つのは馬鹿げているし、お互いの未来にとってマイナスでしかありません。それがわかっているから、戦前日本によって戦火にまきこまれた国のいくつかは将来に禍根を残さないようにしよう、と互いの国のトップが合意して平和をつくりあげました。そのおかげで今を生きる人々は人的交流や経済的交流を不自由なくおこなうことができています。あえて特定の国を敵視する教育を行うのは国民のためではなく、その時の為政者のためにしかならないと彼らはわかっていたからです。
それぞれの国で同じ事実に対して違う見方が生まれるのは当たり前なことです。
だから歴史を学ぶ意義があるのだと思います。
日本人の多くは自国の歴史に無知なせいで、他国の見方をそのまま受け入れてしまっている面が多分にあります。それはまずいことです。
大学までいって、しかも国際政治まで学んで、他国のプロパガンダを代弁する人が生まれてくるような状態になってしまいます。一体何のための国際政治学か、と突っ込みたくなります。
嘘と事実さえ見分けられないほど、自国の歴史に無知な場合、とてもいい鴨葱になってしまいます。
感情を清算するために時が流れ、経験者が地上から退場していくのだから、日本人も自国の歴史をただ事実として淡々と学ぶ機会が必要だと思います。
そして何よりも自分の頭で考える人が必要なのではないかと思います。自分で情報を収集し自分の頭で考える人でなければ、膨大な情報の海にのまれてしまい自己を主張することができなくなります。
主張するためには、自分で考える力が必要です。
それを育てるような教育に変わっていくことを希望します。