ベーシックインカム②

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ベーシックインカムについて①
ベーシックインカムとは (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 2020年、コロナが全世界を襲い、世界中で経済が突然停止した。 多くの企業は突然のこと...

日本の社会保障制度が失われた三十年の原因の一つなのではないか

 2019年の調査で衝撃的なデータが出た。

 二十代の約半数がゼロ貯蓄世帯で、三十代でも3割強がゼロ貯蓄世帯なのだ。

 もっとも消費活動が活発で、お金を必要とする年齢の人々がゼロ貯蓄なのは、なにも彼らが浪費家だからではない。彼らは貯蓄しようとがんばっているが、それでも貯蓄できないほど手取りが少ないのだ。

 このゼロ貯蓄状態では結婚して子供を産み育てようというような余力はない。日本は出産育児にかなりの自己負担を要求する国なので、家庭を持って子供を育てられるのは裕福な家に限られるからだ。

 一方で60代、70代のすでに人生を十分すごした年代の資産平均は二千万ほどある。

 日本の年金制度や保険制度は若い現役世代からお金を徴収してさらに税金で厚みを増して、非現役世代を支える仕組みになっているため、これから沢山お金をつかおうという世代は重い負担で貯蓄もできないような状態になり、余生を悠々自適に暮らしている世代には現役世代からのお金が分配されていくという仕組みになっている。

 どのくらい現役世代から非現役世代に富が移転しているのか、

 2019年は39兆のお金が現役世代から徴収され、それでも足りないので4兆円ほど税金を加えて非現役世代に分配している。

https://www.nenkin.go.jp/saiyo/about/data.html

消費が活発になるのは三十代までで、この間にお金がないといけない。

この期間を逃すと使う機会がなくなる。

若いうちの百万と老いてからの百万では個人レベルでも社会レベルでも価値がまったく違う。

日本は内需で成り立っている国だ。経済の6割は個人消費でまわっている。そんな国で活発に消費をするはずの世代から多額のお金を徴収し、消極的に消費をして余生を過ごしている高齢世代に毎年数十兆もの富を移転させ続ければ、産業はどれも先細る。しかも若い層は高齢世代への仕送りの結果、自分一人でも生きていくのにやっとで、貧しすぎて子供を作ることもできない。その結果少子化が進みつづけている。

それでも、今の制度では現役世代が非現役世代を支える仕組みになっているので、今のような二十代の半数がゼロ貯蓄でも、非現役世代に仕送りしなければ年金制度が成りたたない。

控え目にいって、若者の未来を高齢者の為に犠牲にするような社会システムだ。これをなぜ維持し続けなければならないのか。

これを社会的な惨状といわずして何というのだろうか。

一方で、年金制度がないとどうなるのか。

それは韓国の高齢者の貧困問題を見ると分かる。韓国は日本よりも年金制度の導入が遅かったため、貧困老人という社会問題が起こっていて、高齢者の自殺が日本よりも多い。

お金がないと生きていけないので自殺するのだ。

韓国で貧困高齢者が生活苦から自殺しているのに、年金がある日本ではそれが少ない例からも分かるように、金銭的なセーフティネットがあると自殺者が減る。日本は高齢者には年金という無条件のセーフティネットがあるが、現役世代にはそれがないので、経済が悪化すると若者の自殺者が増える。

経済は良いときもあれば悪い時もある。その悪い一時点で、ただでさえ少ない若者が未来に絶望して自殺していくのは国家にとってどれほどの損失だろうか。毎年町が一つ消えるほどの自殺者がいるのだ。その原因がお金なら、これほどかんたんな解決方法はないはずだ。

高齢者に手厚い社会保障制度を現役世代にも優しい社会保障制度に変えるべきではないかと思う。なぜなら、若いうちは一時的に不調なときがあってもその後何回でも回復しようとがんばれる時間的余裕と精神的余裕があるからだ。

六十代、七十代では遅すぎる。

 それから、日本では無年金高齢者は生活保護を受ける。それがまた年金受給者よりも待遇がいいという事で批判されたりしている。

 ベーシックインカムは行政の手間を省くので、生活保護とか年金とかそういった差をなくしてフラットにする。もらっている金額が同じなら、国民同士の無益な嫉妬と攻撃はなくなる。だから年金受給者からの生活保護受給者へのやっかみは自動的になくなる。

生活保護制度はその目的と効果とそれに見合わない金銭的及び社会的コストからいっても、廃止してベーシックインカムに置き換わるべき制度だ。(コスト例:不正受給者とそれを調査する人員、窓口での対応経費。生活保護受給の恩恵を得ているのが一部なので、それによる社会的な分断と嫉妬や誤解によるヘイト)

若者の自殺を抑止する可能性としてのベーシックインカム

 日本は経済が悪化すると働き盛りの人が自殺する国だ。

韓国と日本はアジアの中でも自殺者が多い事で有名だが、その自殺者の年代傾向が違う。

日本は若者の自殺が多く、韓国は高齢者の自殺が多い。

韓国では70代の死亡原因が自殺という比率が全体の48.9%、約半数にも上るのだ。この原因は韓国の年金制度が原因だと言われている。韓国では国民皆保険制度ができたのが1899年だ。そのため加入期間が短い人が多く、受給資格があってもとてもそれだけでは生きていけない人が多い。韓国は儒教の国なので、昔から子供が自己犠牲をしてでも親の生活を支えるべきという考え方が強く、それが国の制度にまで反映されている。そのせいで、時代がかわり儒教的な時代錯誤な倫理観を持っていない人が多くなり、さらに雇用流動化で若者自身も自分の生活で手一杯になって、高齢者は自分の資産や力で生きなくてはならなくなった。でもそれが出来ない人が多数派なので貧困高齢者という社会問題がおこり、70代の半数が自殺する社会になっている。韓国の場合、高齢者の自殺率が高いので全体の自殺率を引き上げている。

 つまり、日本の場合は若者向けのセーフティーネットがなくて若者が自殺し、韓国では高齢者向けのセーフティーネットがないせいで経済苦による自殺がおこっている。

それでも日本の場合生活保護制度があるからいいじゃないかという声がある。だが日本の生活保護の捕捉率は2割だ。これは条件が厳しかったり、社会的なイメージが悪くて申請をためらったり、申請してきても窓口で追い返したりすることでおこっている。

 しかも生活保護は働いて収入が少しでもあればその分減額されるという労働意欲を削ぐ形で制度設計をされているので一度生活保護になると抜け出せなくなるとも言われる。これでは生活保護が本当にセーフティネットになっているのか、再び社会復帰するための制度として機能しているのか疑問だ。私ももし生活保護をうけなければならなくなったらむしろ自殺を選ぶと思う。自由と尊厳がないからだ。

 自殺をするのは希望がなくなった時だ。

 日本では希望を失う若者が多く、しかもそれを取り戻せる見通しが立てられない人が多い。そのせいで自殺する。彼らにとっては自殺が逃げ道になっている。いくらがんばっても報われない、三十年実質賃金が下がりつづける奇跡の国が日本だ。本当に神がかっている。現役世代が生きる事よりも死ぬ方が楽だと思えるような社会になっていて、しかもそれが変わる見通しがたたない。子供も減りつづけ、年金受給者は4,040 万人 (令和元年)つまり国民の三分の一が年金受給者という驚異的な高齢化社会になっている。若者はもはやマイノリティだ。増え続ける高齢者のために若者は身を粉にして働きつづけ、その稼ぎの中から高齢者の生活費が徴収されつづけ、わずかの手取りで生活しつづける。

 ただでさえ少ない若者が未来に絶望してしまう。そんな国にどんな未来があるというのだろう。

 しかしその絶望の原因が家賃や水道光熱費が払えないことによる不安や絶望なら、または他の人はもらっていないのに自分だけお金をもらうという申し訳なさであるのなら、ベーシックインカムはそれらをかんたんに取り除くことができる。


若者が勝手に自分達で未来に投資する

 若いうちの百万円と年老いてからの百万円は全く価値が違うとよく言われる。

 同じ百万円でも、若い時は積極的に自己や仕事や配偶者や子供に投資する。けれど年老いてからの百万円は投資先がないので預金通帳の数字になるか、株券になるかしかない。だからどうせお金を配るなら積極的に消費や投資をする若い世代向けに配った方がよほど価値がある。

 ベーシックインカムは無条件に一律で配られるので受け取った側はそれをどう使おうが自由だ。

 消費性向の強い若者はそのベーシックインカムと、労働収入をもとに、それぞれが経済活動を行う。

 若いうちは見た目をよくしようとか、学問を深めようとか、あれが欲しい、これが欲しいと、たくさんの欲求がある。若者の欲求は衣食住以外の自己成長にも向けられるので多様なビジネスが彼らの消費活動によって恩恵を受ける。

 しかしある年齢を超えると欲求の範囲が狭くなってきて段々と衣食住に限定されてくる。歳をとって服をあまり買わなくなったというのはよく聞くはなしだ。(逆に子供だと毎年買わないといけない)

 思うにお金はある年齢までは貴重で値段以上の価値があるが、それ以降は少しずつ本来の価値を減らしていくものなのかもしれない。

 若いうちは沢山の可能性と希望があるのでお金の価値はとても大きい。それらの可能性を実現させるためにお金は貴重な手段になる。消費の中心には人がいて、その消費主体は何かに十万払ったら十万以上の価値を引き出せると期待している。そして十万以上の価値を生み出していくから経済が上向く。若いうちの消費の多くは、たとえそれが衣食住への消費であろうと自己投資という側面がある。清潔感や信頼感のある見た目にすれば仕事や人間関係やその他でプラスになって、人生や収入を上向かせるかもしれない。だからいい服を買ったりする。食べる事だって人生経験の少ない段階では学習になる場合がある。良いレストランに無理していってマナーや人間関係を学ぶのだ。環境がいい場所に引っ越したり、高い機材を買ったり、すべてがその後長く続く人生への希望と結びついている。すべてがその消費主体の可能性を広げるために使われていく。そしてその消費主体が可能性を少しずつ開花させ、現実社会に落とし込んでいくと経済が上向く。

 だがその可能性と希望を諦めていくのが老いというものなのかもしれない。以前鹿児島市に行った時に、市の繁華街がさびれていて、都心では人気がある大手脱毛サロンの空きテナントがある事にショックをうけた。鹿児島では経営が成り立たなかった、つまり黒字にできるほどの若者がいなかったという事を意味するからだ。かわりにあったのは整骨院やお惣菜店や壮年向けのお店だった。(実際調べたら鹿児島の高卒の県外就職率は全国一位で、約2人に1人が鹿児島の外にでてしまうらしい。2020年調査)

 若いうちに脱毛サロンに行くと素敵な恋人ができるかもしれないので都市部の若者の多くはがんばって脱毛サロンに通うが、ある程度歳をとってしまうと見た目に無頓着になるようだ。そもそも結婚したり歳をとったので恋人がほしいとかいう欲求がなくなったり、その後の人生に投資しようという気持ちがおこらなくなったり…。これは脱毛サロンに限らない。あらゆる分野で数十万かけて自己投資しようという人は少数派になっていく。

 若いうちに難しいプログラミングの勉強をすれば転職で有利になるから高いお金と時間を費やして学ぼうとするが、五十を過ぎてもうすぐ定年というときになってその意欲が湧くだろうか。湧く人もいるかもしれないが若い頃に比べて限界を感じる人も多そうだ。

 歳をとるという事は、少しずつ何かを諦めていく事なのかもしれないと、最近感じるようになった。私は今三十代前半だが、そのように感じる。年をとると可能性は減っていく。歳をとるたびに確実に消えていくらしい。それは今の日本社会のように、選択肢が毎年減っていく状態と言い換える事もできるかもしれない。お金や教育の投資対効果が高いのは十代と二十代だ。彼らにはまだ可能性があり、成長の余地がある。だからその世代にこそ社会は投資すべきだと思う。

 まだ何も諦める必要がない時期にお金が有れば皆チャレンジできる。その期間を経済的に抑圧されているのが今の若者だ。

もし余裕があれば、彼らは各自で何にチャレンジすべきか判断する。

個々の創造性を助ける可能性としてのベーシックインカム

 誰しもが嫌な仕事をしなくても良くなり、それぞれが価値のある仕事をし始める。そんなかつてのギリシャ・ローマの自由市民しか許されなかった権利を誰もが得られるようになるかもしれない。そんな未来があともうすこしでテクノロジーが人間の仕事を奪うことで実現されるかもしれない。そんなところにまできている。

 AIとの競争になった時、人間はより人間らしい方向でしか生き残れないと言われている。つまりコミュニケーション能力と創造性だ。コミュニケーション能力と創造性は年齢や性別に制限されない能力であり、訓練すればのびていく能力でもある。これは若者も高齢者もそれぞれに能力を伸ばして価値を増幅させることができる分野だ。そうしたより人間性を重視した方向での仕事が増えていくかもしれない。それは、今はまだない仕事である可能性が高い。 

 それ以外でも、もしベーシックインカムがあれば、本当はやりたくない仕事をしてお金を稼がずとも済むようになる。そうなれば自尊心が削れるほど嫌なことに従事しなくても良くなる。より価値があることにエネルギーや才能を費やすことができれば、本当に価値があるものを作り出す人がでてくるかもしれない。

全ての面接に落ちてコンビニバイトをしていた現代のソクラテスが、ベーシックインカムで生活しながらすぐにはお金にならない哲学で知的労働をし始めるイメージだ。

 ノーコード革命

 散々人間の仕事がテクノロジーによって奪われるという話をしたが、それとは反する例もある。

 テクノロジーの進歩で、前述した単純労働の機械化以外にもう一つ顕著な傾向があるのだ。

 それは、それまで扱いが困難だったテクノロジーを誰でも使えるように改良してきているという点だ。例えばノーコード革命だ。

 昔はホームページはコードを書ける人しか作れなかったのに、今では誰でも簡単に、ものによっては数十分で作れるようになってきている。それはゲームやアプリといった非常に高度な知識が必要とされる分野までもそうなってきている。

 snsを見ればわかるように、誰でも使えるということがサービスやプロダクトの価値に直結してきているからだ。この傾向は今後も加速していくはずだし、それによってサービスの利用者が増え、サービスの利用者が増える事で彼らは新しい文化やプロダクトを発明し始める。するとその流れがより加速していく。

 そうなったら、もしかすると高い学習コストを払わなくても、多くの人が少し学ぶだけである程度のものを作れるようになるかもしれない。すでにホームページや簡単なアプリ製作ではそうなってきている。

 かつては数十人の開発者がいないとできなかったような仕事を、わずかの学習コストで一人、または少人数でできるようになってきている。

 実際私が作っているゲームもそうだ。

ノーコード革命のすごさは、学習コストという参入障壁を下げる事で、誰でもアイデア次第でビッグビジネスを作りだせるようになってきたことだ。実際インドの事例ではバブルというノーコードサービスを使って億を超えるサービスを確か数人で作って運営している。

バブルに限らず、テクノロジー分野は様々なものの学習コストやソフトの金額や参入の障壁が下がってきている。WEB3.0のメタバースで需要が高まるとされている3Dモデル開発なんて今では中学生でもできるくらい、操作が簡単で様々なコストが安くなってきている。

環境は既に整っている。

 あとは、それを可能にする学習時間や創造性を発揮する余裕と生活を支える最低限の収入だけだ。それさえあれば、各自が勝手にやり始める。一人で数十人分の仕事ができるのがテクノロジーの強みだ。そうした分野で勝手に創造性を発揮し始める人がたくさん出て来ればあとは確率の問題だ。いくつかはヒットするかもしれない。

 そしていくつかのヒットが出れば失われた数十年を食い止めることもできるかもしれない。

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