ゆたかさってなんだろう

日記

こんにちは、蒼生です。

今日はNOTEのお題である #ゆたかさってなんだろう。 というテーマで書いていきます。

生存権が保障された国で

日本のような先進国における、ゆたかさの定義は、おそらく人によって違います。

物質や富に豊かさの象徴を求める人もいますし、愛情に豊かさを感じる人もいます。また非物質的なもの、たとえば知識や経験にゆたかさを感じる人もいます。

そしてそれぞれの立場でそれぞれの豊かさを主張し、企業であれば喧伝し、顧客に行動を促しています。今はゆたかさのバリエーションが非常に豊富な時代です。

少し前の時代であれば豊かさとは飢えずに済むことだったでしょう。

しかし人類の多年にわたる努力の結果、世界の状況は少しずつ改善されつづけました。

そして我々の住む経済的に豊かないわゆる先進国においては、死なずに済むのは当たり前で、それ以上の豊かさを論じる贅沢な状況になっています。

つまり、ゆたかさってなんだろう、と論じるこのスタートの問いこそ(生存権が保障された状態から上の)豊かであるという証拠なのです。

そして豊かさを論じる前に我々はゆたかだと認識する必要があります。

何故なら「自分はゆたかではない」と錯覚するその心の隙間に、次の要素は忍び寄ってくるからです。

無限にある欲望のカタログ

この世の中には企業なり個人によって製造された、偽りの必需品「欲望のカタログ」があふれています。

死なずに済む時代、人は衣食住を満たすために生きなくても済むようになりました。すると、本来は衣食住の充足のために向けられるはずだったエネルギーが手持ち無沙汰になり、次はどうすればいいのかと求め始めました。

しかしすぐには見つかりません。なぜならほとんどの場合それは決して必要ではないからです。それに気づかず、自分はゆたかではないと思い込んだ状態の人の多くが、安易に他人が提供する欲望のカタログに手を伸ばしてしまいます。

先にも言ったようにゆたかだと感じる要素は人によって違います。

お金や宝石や家や車などの物質に豊かさを感じる人もいます。

知識や経験の積み上げに豊かさを感じる人もいます。

家族や友人や仕事仲間などの人間関係に豊かさを感じる人もいます。

精神的な安らぎに豊かさを感じる人もいます。

それぞれが、それぞれの立場でこうすればこの幸せが手に入ると言っています。

欲望のカタログの中から、この商品が欲しいと思えば、次はその商品を手に入れるためのノウハウを学ぶ段階になります。ちゃんと学べば、もしかしたら手に入るかもしれません。だって手に入れた人がいるのですから決して不可能ではないでしょう。

でも、それは本当にあなたにとって必要なものだったのでしょうか。

あなた自身が、自分にとって何が幸せなのかわかったうえで、

本当にその「さらなるゆたかさ」を求めたのでしょうか?

無限にある欲望のカタログの中から、一番適当なものを選んだだけではなかったでしょうか。

欲望のカタログを押し売りされて、

それを自分の欲望と勘違いして受け入れてしまったのではないでしょうか。

何かを得るためには多くのエネルギーと時間を要します。もしそれがあなたの本当の望みではなかった場合あなたは臨終の床で後悔するはめになります。

そうなっては元も子もありません。

人は実は苦しみたい

人は幸せになりたい一方で、実は同じように苦しみたいのです。

小説を書いているとそれをとても強く感じます。

人間にとって苦い経験は果実のようです。

苦しみや悲しみは物語の要素として古代から尊ばれてきました。

何故か?学びたいからです。感情を経験したいからです。

人間は苦しみや悲しみが自己の成長を促すものだと昔から知っているのです。だからフィクションの世界では特にそれを強く求めます。自分の人生で学べなかったものを、フィクションを通して学ぼうとしているのです。

フィクションの世界では自分に痛みがないのですんなり受け入れられます。

でも、もちろんフィクションよりも現実の世界での苦しみの方が自分にカスタマイズされているので学ぶことも多くその見返りも大きくなります。

苦しみは精錬されていない鉄のようなものです。それを乗り越える事ができれば一生裏切らない強固な武器防具を手に入れる事ができます。

しかし逃げれば、本当の不幸がはじまります。あなたにカスタマイズされたそれは、ずっとついて回ります。

だから今よりも豊かになりたいと、さらなるゆたかさを求めるのなら

他人の作り出した欲望のカタログを開く前に

この人生の苦しみのすべてと戦う覚悟を持った方が、結果としては豊かな人生になりやすいという事になります。

他人の服を着るな

欲望のカタログのいくつかは一般化されています。

例えば愛情に関するそれがそうです。この欲望のカタログを作った人は間違いなくそれで幸せになったのでしょう。

また、これは共有されやすい理想像の一つでもあります。

しかし他人が生み出した幸せの形は、自分に当てはまらない場合が往々にしてあります。それは他人の服を着るように、とても居心地の悪いものです。

例えば、私には子供の頃からあまり欲がありません。食べ物は放っておくと食べなくなるので意識して食べていますし、恋愛感情にいたっては欠落しているようで昔からよく他人に不思議がられます。

よく「なんで?おかしい」と言われますが、それはその人の考えた幸せなのであって私にはその服は窮屈すぎるのです。

そもそも、他人が自分の人生の時間を拘束したり、幸せのパーセンテージを左右するなんて、不幸以外の何物でもない気がするのです。(その人にとってはそのすべてが幸せなのでしょうが)

そんな他人の価値観をもし私が受け入れてしまったら私は間違いなく不幸になるでしょう。私の世界に、その要素はないからです。

だから、いくらこれが幸せだと他人が言っても、それはその人の体にぴったりな服なのであって、自分は自分のために服を作らなければならないのです。

もう一つ、私には子供の頃からあまり欲がないと言いました。

だから自分に自分の望みは?と尋ねるとどこまでも空っぽで空虚なのです。しかし私はそこそこ幸せなのです。

幸せとは主観的な感覚です。

最初に「すでに豊かだ」と話しましたが、もしその事実を認めずにその空虚さを埋めるために、欲望のカタログを開いて他人の言うがままに様々なものを入れてしまったら私は間違いなく不幸になるでしょう。

望みがないこともまた幸せなのです。

それは心が穏やかな状態です。風のない日の湖のようです。

しかし私には大欲があります。それは自分の中が空っぽであるという事と全く矛盾しません。

大欲は無欲である方がいいのです。なぜなら大欲のために自分を用いることができるからです。

小欲は欲のために自分が使われている状態です。

上位プログラムのためには、下位プログラムが相反するような動きをしてはいけない。ただその遂行のために作業するのが正しい関係です。

欲は行動の起爆剤

人間には色々な欲望がプログラミングされています。

食べなければ死ぬのでちゃんと食べるように強いられますし、住む場所やコミュニティがちゃんとしていないと居づらいので整えよう、心地よくしようとします。

もしそれが欠けていれば、それを手に入れようと行動します。

何かを求めているとき、脳の中にはドーパミンという物質が出るそうです。だから食べ物でもお金でも異性でも求めているときは心地よくて夢中になれるのだそうです。

何かを求め、それを手に入れる事で、あらゆることは変化していきます。

決して悪い事ではないでしょう。世界の飢餓状態だって、これを改善させたいという欲求があり、それを改善すべく動いた多くの人々によって改善されたのです。

大切なのはその人間を強く駆り立てる欲が、どこに向かっているかなのです。

何かに欲を持ち、課題を解決して達成すると、人は満足感を得ます。

その成果のコレクションの果てに、死の床で最終的なゆたかさの判定を行うことができます。

でもそれでは遅すぎると思う人もいるかもしれません。

死ぬ前に、自分の行動の結果が良いものか悪いものか知りたい。

いや、それ以上に、自分は絶対に間違えたくない、間違った行動などとりたくないと思う人も大勢いるでしょう。

けれど、先に「人は苦しみたい」でも述べたように、正しい事だけを述べ連ねたシナリオは面白くないのです。そして間違いの一切ない漂白された世界では美しい模様は編めないのです。これは世界においても個々人においてもそうなのです。

人間は常に目の前の事に夢中でそれの達成を試みます。

結果的にそれが最悪の結果を招く事もあるでしょう。

これこそ正しいのだとその時は信じているのです。でも間違っていた、こんなはずじゃなかった。そういう結果になることも往々にしてあります。

でもその時がその人にとっての最高の瞬間なのです。

自分のためにカスタマイズされた問題が目の前に現れてくれたのです。

他人の用意した欲望のカタログなどめくっている場合ではありません。

自分の問題と正面から向き合うべきです。

そこにこそ自分の本当に望む姿へと続く近道があるのですから。

墓に入れるのは自分一人

メメント・モリ 死を思え。

その言葉が生を価値あるものにしていきます。

生は必ず終わる旅路なのですから、その終着地でどのように終わりを迎えたいと願うか、それが今を規定していきます。

誰しもが生きているときはがむしゃらです。そして常に目の前のことに懸命に対処しています。でも死を思うとき、一気に冷静になります。

そして自分が墓場にどんな荷物を持ち込もうとしているか、それで自覚できるのです。

墓場には車も本も家族も友人も持ち込めません。

世間では墓に持ち込めない幸福な姿の押し売りがあふれています。

億万兆者、幸せな家族、一生の友人。そのイメージを押し売りされて、自分には必要ではないのに求めて不幸になるパターンがあふれています。

でも本当は皆知っているのです。

墓に入れるのは自分一人だと。日本では火葬するので骨しか残りません。

その骨のために必死になって今得ようとしているものは、果たして本当にそれだけの価値があるのか。皆疑問を抱きながら、必死に何かを求めて生きています。

でも事はシンプルです。

その疑問に真正面から向き合えばすぐにでも解放されます。

全てが無に帰す前提で創造する

一般的にゆたかさの象徴とされる金も家族も友人も、目的ではなく何かの副産物です。

副産物を人生の目的にするからおかしくなっていくのです。

そして死ぬときすべて手放さなければならなくなります。

必ず全ては無に帰すのです。

すべてを手放したあとに自分は何を残せるか、歴史上の偉人たちは皆、

自分亡き後の世界にどのように貢献できるかを生きているうちから思索してきました。

最初に述べた日本国憲法25条「生存権」だって、最初は草案の中にすらなかったのに時の議員(国民の代表、主に森戸辰男)たちが議会で議論して可決されたのです。

それまでは国のために国民(臣民)が死ぬのが当たり前という世界観だったのですから革命的な変化です。主従が逆転しただけでなく、価値観までもが劇的に変わりました。

この生存権が記入されたおかげで、日本国は国民に対し、生存できるよう保障しなければならないという義務を負うようになりました。

今私たちが、コロナ経済危機の最中に「ゆたかさって何だろう」なんて幸せな悩みを抱けるのは先人が後人の幸せを念願してねじ込んだ一文の効果でもあるのです。

歴史上に名を遺した先人もいますが、ほとんどは名も知られず、時には残りもしません。それでもその成果が積み重なり、世界は少しずつ良くなってきたのです。

ゆたかさってなんだろう、と考えるときには

こうした考え方を持つのも悪くないかもしれません。

それは大河の一滴です。そして一滴の集まりによって大河は成り立つのです。

だから何かを望むときに

それは自分が死んで灰になっても残るだろうか?

と問うてみてはいかがでしょう。

多くの先人がつみあげた遺産の上で、

今幸せな悩みに思いを巡らせる幸せについて感謝します。

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