義務教育はサバイバル教育になる
こんにちは、蒼生です。
前回ベーシックインカム×起業家教育で社会は変わるということについて話しました。

AIとの熾烈な競争を生き残っていくためには、人間にしかない能力を磨いていき、
一人一人の生き残る力をあげることでしか、個人の生活も社会も、維持できないからです。
それはまさに、サバイバルを目的とした教育です。
今回はそのために公教育がどう変わっていくべきかについて話します。
小学一年生から経営者になるためのマインドと知識を教えていく
仕事の大半がAIに奪われる未来、仕事ができるのは選ばれし者
と言っても過言ではないかもしれません。
あまりにも多くの人間がAIとの競争で敗れ、失職する未来が確実視されているからです。
今までの公教育は使いやすい労働者の大量生産をしていましたが、
これからの時代そういう人間は本当に使い道がなくなるので
生き残りをかけて自分で仕事を作れる人間を育てていく必要があります。
これは個人の幸せのためであると同時に社会の維持のためでもあります。
(詳しくは前回のベーシックインカム×起業家教育で社会は変わるを参照)
教育の目的は自分で仕事を作り出すため、そして生き残るために変わっていく必要があります。
お金の授業がないと、みんな生き残れない
今の学校教育・義務教育の内容は労働者を生み出すためのものなので全面的に変える必要があると思っています。
まず、ベーシックインカムが導入された場合
その月七万(もしくはそれ以下)の収入をいかに有効に使えるかが重要になってきます。
これが命綱なのです。
だから小学一年生の時点から家計管理の仕方を教えて収支を自分で管理できるようにさせる必要があります。浪費癖がある子供はそれをなおせるように指導する必要もあるでしょう。
ベーシックインカム月七万というのは、毎月七万もあれば貧困状態にもならずに暮らせるだろう、ということで割り出された金額ですが、
これで生活できるのは自分でしっかり家計を管理できる人の話で、それが出来ない人は割と簡単に貧困状態に落ちてしまう金額だと思います。
貧困は社会にとってリスクです。だからベーシックインカムの議論があるのです。ですが節制できる人が少ないと貧困はやはり生まれてしまいます。バケツの底に穴が開いていたらいくら税金で水を入れて豊かにしようとしても効果はありません。
だから、何よりも大切なのは、この命綱を自分で切ってしまわないように、幼いうちからしっかりお金を管理できる能力を身に着けさせることです。
今の義務教育にはお金の授業が完全に抜けおちています。
だからサバイバルのためにもこれは徹底的に教える必要があると思っています。
また、これは単にお金の管理だけではなく、自分の欲望をコントロールする訓練にもなります。
(例えばベーシックインカムの10%は親ではなく子供に管理させるとか。金銭教育目的資金として確保。確保させない親は指導するくらいの強制力が必要。
その10%を子供がちゃんと考えて貯蓄したり、消費したり、投資したりするといいと思う)
英国社理数 五教科は実学と教養に分けて教える
方針を起業家の育成に据えたとき、五教科の教える内容は劇的に変わります。
今は何のために教えているのか分からないものも多いのですが、AIとの競争で生き残る人間を一人でも増やすことを目的にした場合、自然と無駄は省かれていくはずです。
大切なのは、その知識が何の役に立つかです。
国語
国語では文章の読み書きはもちろん徹底的に教える必要がありますが、
(文字の読み書きさえできれば独学できるので)
同時に文章をいかにうまく使うかという「武器としての視点」でライティングスキルも教えてあげれば、きっと将来役に立つだろうと思うのです。これを教えるのは羅生門を読ませるよりも簡単なはずです。
つまり分かりやすいビジネス文書の書き方や、セールスライティングを教えるのです。
今のような歴史的な名文を色々と鑑賞するのは、まあ…悪くはないんですが、それは教養として教えるべきで大きく時間を割くような分野ではないと思います。(もしくはライティング的な視点からそれを鑑賞させるとか)
そういうことをいくらしても実践として言葉をつかえるようにはなりません。
教養はもちろん教養として必要ですが、今の義務教育はそちらに偏りすぎているきらいがあり、ほとんどの人にとっては一生役に立たないことばかりを教えているので、学校には行く必要がないという意見もでてくるのです。
せっかく税金を投入して広く行う「義務教育」なのですから
もっと一人一人の実生活の役にたって、しかも将来ちゃんと使えることを教えてあげた方がいいと思うのです。
子供は時間も消費するのですから、役に立たない事を教えられるのは迷惑です。
もし、美しい文章を堪能させる必要があるというのなら、副読本を用意するなり、自分で読み書きできるのですから図書館に行かせるなり、後述する宿題の中で研究させればいい話だと思うのです。
義務教育は最低限のサバイバル知識を授ける教育
なので、もし教養が必要だと思うご家庭はそういう塾に通わせて学ばせればいいだけの話です。
それに今の時代、知りたいと思う事は何でもネットで調べられるので、塾に通わせるまでもないかもしれません。
英語
英語は、実際使えるようにする必要があると長年言われ続けていますが…なんででしょう。
みんな長期間習っているはずなんですが、日本人のほとんどは英語が苦手です。
いずれにせよ日本の人口は激減していき、外に働きに行ったり英語でコミュニケーションをとる必要が生じたりするはずです。(また単純に英語で情報収集できたほうが幅が広がる)なので英語はきちんと「使える」ように教えてあげた方がいいと思います。
これに関しては国語と同じくらいの時間をかけてやる必要があるのではないかと思います。
算数
先述した通り、家計管理は低学年の時から足し算引き算と一緒に時間をかけて学ばせる必要があると思います。
そして学年が上がってきたら、常にその知識をどのように使えばいいかを具体的に教えていく必要があると思います。
お金の勉強が欠けていると言いましたが、算数がなぜお金の勉強と絡まないのか不思議です。
お金がからめば皆必死で勉強するはずなのに、まるで一番重要なことから学問自体が逃げているようです。
それから経営には簿記の知識が必要だと言われます。
これこそ時間をかけて教えてあげた方がいい事だと思います。
子供の頃見たドキュメンタリーでこんなのがありました。
その人は人気のお菓子店を経営していたのに大赤字になって店を閉めた。というのです。人気なのに大赤字になった原因は
(原材料+製造コスト等の合計)が販売価格を上回っていたからなのだそうです。
つまり原価300円のものを250円で販売していたせいで、売れば売るほど赤字になっていくという状態だったのに、経営していた本人は頑張ればきっと報われるだろうと信じて作り続けて
ついに倒産してしまったということなのだそうです。
これを見たときは「こんな事ってあるのか!?」とにわかには信じられなかったのですが、
算数はできるのにこういう計算が出来なくて売価を不適正に低く設定してしまう人はけっこう多いようなのです。
それはたぶん自分の労働を原材料費と同じようにコスト認識していなかったり、値段のつけ方が分からなかったりするからのようです。
算数をもっと実生活や将来に使えるようにして教えてあげないといけません。生き残りのためです。
でないとこんな事が実際に起こってしまうのです。
社会
AIとの競争で、仕事を自分で作るという選択をする人が増えてきたとき、色々と問題が発生します。といってもその問題はあまりに初歩的で、それなのにあまりにも大事な事なのです。
問題は知らないという事です。
確定申告や会社設立の仕方や税金やセーフティネットの申請などについては、流れだけでもいいのでちゃんと教えてあげるべきだと思います。(例えばこの問題が起こった時はこの役所に問い合わせるとか、こうする、とか。簡単なHOWTOさえ分かれば、困った時に自分で解決しやすくなります)
これが既存の社会科の枠に入るのか分かりませんが、どうしても必要なことです。どうしてどうでもいい事はたくさん教えるのに、必須の知識であるこれらを全く教えていないのか不思議なくらいです。
もちろん、歴史や現在の社会の枠組みについても必須の教養として教える必要はあると思います。
それがなければ社会を構成する一員としての世界観がずれてしまいますので。
でもこういう知識は将来のために絶対に必要だと思いますし、この知識がなければサバイバルが出来ません。AIに仕事を奪われたあと、荒野で開拓しようにも素手で開拓するようなものです。
せめて農具くらいはもたせてあげてください。
それさえあれば、きっと学生時代から起業するようなチャレンジャーが沢山現れるはずです。
理科
理科は実学的な観点よりもほとんどの人にとっては教養としての側面が強いと思います。
しかし水は水蒸気や氷になるという知識がない人は、きっとそれを初めて見たとき
魔法だと思ってしまうでしょう。だから、やはり世界を理解するためには必要な知識です。
理科に関しては、その道に進む人にとっては絶対に必要な基礎知識です。
だからこれはこのままでもいいと思います。
(改善の方法があるなら改善した方がいいと思いますが、私は思いつきませんでした)
不要科目 道徳
道徳ほど不要な科目はありません。学生の時に同様の感想を持った人は少なくないはずです。
ある答えを期待する教科書があって、教師による誘導があって、その通りの答えをすればいいだけなのですから「完全に無意味」です。だから私は子供の頃は常に、望まれている答えを予想して、それに反対する意見を言い、作文なら作文にして提出していました。それはある種のディベートだったのかもしれません。
そもそも道徳とはその時代の支配的な観念であって、
支配層が被支配層に期待する態度だったり思考だったりするので、
これをまじめに学ぶ方がばかげています。
子供の頃はなぜ、他の子供たちは「従順に」期待される答案をだしているのかわかりませんでした。シンプルに奴隷化教育だし、それを出したところで魂を売って無価値な通信簿の点数を多少上げてもらえる程度の割に合わないリターンしかないからです。でも子供の段階ならこれは無批判に受け入れられるものなのかもしれません。私のように小学生の段階から自我が出来上がっているくそ生意気なガキは少数派なようです。
これは従順な労働者の大量生産のためには必要でしょうが、そうでなければ無駄の極致
ですし、これからの時代はそういう無批判で自分で思考もできない人間は使えません。
AIに淘汰されておしまいです。
だから道徳の時間をもし残すなら、内容を全て使える内容に一新すべきです。
支配層のための教育ではなく、当事者が生き残る力を学ぶための学習内容にすべきです。
経営者になるためには知識を色々と学ぶのも大切ですが、それ以上に精神を自分でコントロールする術を身につけなければならなくなります。
だから、アンガーマネジメントや論理的思考や様々なストレスへの効果的な対処法やディベートの仕方などを教えてあげた方がよほど有意義です。
大人でも難しいことを子供ができるか?と思われるかもしれませんが
子供の頃に全くやらなかったから大人になって突然やれと言われても難しいのだと思います。
だから早いうちからきちんとそういう訓練を繰り返し行わせてあげたほうが
よほど効果的だと思います。完全に出来上がった大人には難しくても、子供のうちならまだ色々な部分を変えられます。
特にストレス対策やアンガーマネジメント等は、早いうちから訓練をつんでおいたほうがその人のためです。
それにこれは、別に経営者にならなくても役に立ちます。どんな環境でどんな生き方を選んでも使えるものです。こういうことこそ、義務教育でやるべきです。
選択科目 美術、音楽、家庭科
美術、音楽、家庭科は廃止でもいいんじゃないかと思ったのですが、選択式で考えてみます。
なぜこれらの科目がいらないかというと、美術・音楽に関しては教えられないからです。
才能がある人にとって義務教育レベルの美術音楽はレベルが低すぎて話にならないし、その逆にとっては何の役にたつのか分からないつまらない授業です。
そもそも、美術や音楽を教えるときは必ず「圧倒的に優れた一流のもの」以外は教材にしてはいけないし、教師にしてもそうだからです。中途半端な作品や才能で教えられると、美のイデアが曇ってしまい、害にしかならないのです。(学校のペラペラの教科書に有名なだけのポップスが載ってたりすると、これは一体何を目的にしているのか…と子供心に謎だった)
だから教員免許を持っているだけの人が無理して教えるよりも、美術館に黙って連れて行ったり、コンサートに連れて行ったりしてあげたほうがよほどいいのです。
でもこれは才能や興味がある人にとっては有意義ですが、そうでなければ苦痛なはずです。
だから選択式がいいのではないかと思います。
そもそも美術・音楽は本当に才能がものを言う分野であって、才能があれば教えられなくても勝手にできるようになってしまいます。才能がなければ教えてもできません。
向き不向きがとても出る分野ですし、できなかったからといって全く困りません。
それは脳の特徴、個性であって、ある分野が出来ないという事は他のある分野ができるという事でもあります。(私も文章を長時間書いた後は線を綺麗に引けなくなったりするので、言語処理能力と描画能力は分かれているんだと分かります。だから絵が描けない人はきっと言語処理能力や他の能力で伸ばした方がいいと思うのです)
今の学校教育はオールBをとれるように指導しますが、それは労働者としては合格かもしれませんが、起業するとなると明らかに力不足です。
ほとんどの人はなにかしら偏りがあります。その偏りをいかに仕事にするか、事業にするか、そのためにどういう行動をとればいいか、そういうことを考えたり教えたりしたほうが間違いなく成功確率が上がります。
美術音楽の才能がなければその部分は全捨てしても一向にかまいません。
時間とエネルギーは有限であって、それを無駄に浪費して
意味もなくオールBにする方が無駄なのです。
教養を学ばせる意義が!などという反論がわいてきそうですが、それは家庭教育でやればいい話なのです。公教育は税金を投入して、一人一人がサバイバルできるような知識や技術を教えるものなので趣味めいた教養などに税金を投入し、しかも子供の時間を奪うのは間違っていると思います。
そもそも自学自習できるようにするために、文字の読み書きや計算を教えるので、興味があれば自分で図書館なりネットなりで調べればいいのです。教員免許を持っているだけの人に色々教えてもらおうなんていう期待は甘すぎるし、こと芸術分野にいたっては完全に報われない幻想です。
またこれからの時代そういう独学する力がない人は仕事を見つけられません。
AIとの生き残りのために、自分で仕事を作って生き残るためのサバイバルが公教育の目的です。
あと、家庭科は正直、なんのための勉強なのかいまだによくわかりません。
体育
体育は、もしかしたらすべての教科の中でもっとも重要かもしれません。
というのも、運動習慣のある人は健康的で長生きできるからという従来の理由からではなく、
運動は脳細胞を増やしたり、ホルモンバランスを整えて問題行動や鬱等の精神障害を抑制する効果があることが分かり始めたからです。
現在は本当に動かずに済む時代になりました。移動手段も娯楽も、生活の中のあらゆる活動が自動化されて、人間はたいして動かなくても良くなったからです。そのため、体育の授業が唯一の運動時間だという子供は少なくないはずです。かくいう私もそうでした。
ですが、朝勉強する前の運動は、その後の集中力や記憶力を上げることがわかっています。
これは驚きです。一日机に張り付いて勉強するより、運動してから勉強した方がいいという事です。
健康と学力には明らかな相関関係があるようです。
ということは、貧困を最も効果的に断ち切る方法は、健康維持に時間とエネルギーを割く事なのではないかと思います。
それは学校で考えるなら、体育と給食です。
給食を上げたのは、子供の中の一定数は虐待により飢えているか貧困により肥満しているからです。つまり家庭環境のせいで健康状態が悪いのです。
飢えているのは分かりやすいのですが、肥満は分かりにくい特徴です。裕福な家庭と混同されやすい特徴です。貧困家庭では安価でカロリーがあり、栄養価の低い炭水化物を中心に子供に与えがちで、その結果肥満してしまう(でも栄養は不十分)ということになりやすいようです。
そのため、学校給食と体育などによる運動習慣とその意義の教育により、自分で人生を変えられる力を小さいうちからはぐくんでいく必要があります。
そして、運動習慣を子供の頃から身につければ、大人になってからも健康でいられます。
それは様々な生活習慣病リスクを下げる事にもつながりますし、
脳も体も成長し続ける土台を作ることにもつながります。
宿題は廃止
宿題は廃止です。
これを言うと勉強嫌いな子供はもろ手をあげて喜び、真面目な大人たちは眉間にしわを寄せて怒り始めるかもしません。
ですがよく考えてください。教育はなんのためにあるのでしょうか?
私は今後、言われたことしかできない労働者は不要になり、すべてを自分の頭で考えて必要に応じて努力する経営者にならなければ生き残れないと考えるので、サバイバル教育という位置づけでずっと話しています。
そのため従来の一方的に与える宿題は廃止にして、自主性や自己管理の訓練のための機会にそれを使ったらどうかと考えます。
今までの宿題は教師が授業内容にそってあれをやれこれをやれと命令し、子供はそれに何の疑問もなく「宿題だから」と従順にやって提出するだけでした。
ですが、これからは課題設定自体を子供たちにやらせます。
自分でやるべき課題を決めさせ、必ずやりとげることをコミットメントさせ、自分で問題を見極めさせ、解を見つけさせ、その結果に対しても自己評価させるようにするのです。
夏休みの宿題に自由研究というのがありましたが、あれを少し高度にしたものを日常的にやらせる感じです。夏休みの自由研究が上手くできない子供は沢山いますが、あれは普段やらないことを突然やれといわれるから上手くできないのです。
日ごろから自分の頭で考えさせ、自分で計画させ、うまくいかないなら問題を分析させ、自分で解決させる能力を育てていく必要があります。
こうなると、最初のうちはうまく出来ない子供が大量発生するはずです。
ですが、その時こそ教師の出番です。(上手くできる子供は自分でどんどん課題設定と解決をやっていくのでスケジュール管理アプリとかを使わせて勝手にやらせておいたらいい)もし教師の手が回らないなら地域からある程度指導経験のあるボランティアを募るなどするといいと思います。
上手くできない子供は、課題設定やスケジュール管理や評価の手法など、あらゆる部分で何かしらの問題を抱えていて、しかも自分では解決できないのです。
一言でいうとセルフマネジメントができないのです。これは経営者としても労働者としても致命的でしょう。(特に労働者は選ばれし者になるので絶対に採用されません)
また、どんな立場になっても自分で自分を管理することが出来ないと、それだけで苦労します。
逆にそれができれば自分の欲望や衝動をちゃんとコントロールし、目標通りに自分の人生を歩んでいくことができます。
宿題の目的をセルフマネジメントに変え、もしそれができたら次はもっと高い目標や興味のために自分でどんどん学んでいくように仕向ければ、
一体何のために勉強するのか、自分にはどんな能力や知識が足りないのか、自分で考えて自学自習するようになるはずです。
それは自分の力で向上していける人間になるということです。
今まではこの態度を大人になっても身に着けていない人でも企業に入れば、きちんと訓練されてできるようになってきました。(経営者やマネージャー的な人からすると、なんで十代のうちにそれを身に着けていないんだと思っていることでしょう)
ですが、これからはそういう機会は激減します。社会にでて教育してもらうのではなく、子供のうちからちゃんと必要最低限の自己管理ができるように訓練していく必要があります。
そしてこの態度が身につくのが早ければ早いほど、その後の未来は自分の力でコントロールできるようになります。
ですが、これをやろうとすると教師の質に大きく左右されます。
今の状態ではおそらく出来ない教師が沢山いて、その指導を受ける子供は地獄です。
教師の質が低いままではまったく機能しません。だから次のことが必要になります。
教員免許は車の免許のように頻繁に更新する
子供の頃に、フィンランドの教師は定期的に学ぶ機会を与えられ、その能力や知識をアップデートさせる。というのを見たことがあります。子供の頃の私はそれを見てうらやましく思いました。
今の日本では教員免許は一度とってしまったら10年も使えるそうです。どうりで古い価値観や指導に固執する教師がいるはずです。(その前は更新すらなかったそうなので少し改善してる)
本来であれば教員免許は車の免許のように頻繁に更新すべきです。何年も整備していない車や何年も乗っていないペーパードライバーを車道にだしたら怖くて仕方ないですよね?
人間を教育するのが教師なのです。時代に即して常に最新の状態にすべきではないでしょうか。
もちろんそのための費用はかかるでしょう。でもそれは必要経費だと思います。
今は大学等で30時間の講習を受けるそうなのですが、それは動画等で済ませれば通学の負担も減るはずです。そして授業を受けて終了ではなく、なんらかのテストが必要だと思います。この負担もITで解決できるはずです。
教育は投資なのですから、そこをケチってはいけないと思いますし、少子化が叫ばれているのに質の悪い公教育を受けさせるなんて未来を捨てるようなものです。
それに教師をアップデートできないと、時代の流れに全くついていけなくなります。
仮にすばらしい仕組みをつくって、それを学校で教えようとしても、教師がアップデートされていないと、従来の流れに固執するようになります。現場が変われないのです。
こういう問題を解決し、そもそもの教育の質を常に高く維持するためには教員免許の更新と教師を定期的に教育するような制度が必要です。(特に指導経験が少ない時期は)
もちろん教師自身も自分を生涯にわたって向上させられるような余裕ある勤務ができるようにしなければなりません。そのためには積極的にテクノロジーを活用し、教師がやらなくてもいい不要な仕事を大幅に減らしていく必要があるはずです。
そしてもちろんそれだけやっても基準を満たせず更新できないような教師は、現場から去ってもらう必要があります。(この基準は厳しくあるべきです)
教師の座に能力がない人物がいてはならないからです。
生涯現役になるための基礎
何故60歳定年なのか、不思議に思った事はありませんか?
これはたぶん、多くの会社が能力や体力などの観点からその従業員を
人的資本として価値があると見做せなくなるのが60歳位なのだと思います。
労働者として長年訓練を受け、働き続けた人はその会社以外に働ける場所を見つけにくくなります。つまり収入の道が途絶えます。そうなると貧困状態になります。
もちろん社会は貧困を放置すると余計に大きな代償を払わなければならなくなるので、そのリスクをなんとかするために年金を支給して彼らの生活を支えます。
でも60歳って本当はまだ普通に働けるんですよね。
会社員が多いせいで、本当は働けるのに60を過ぎたら仕事をしないほうがいいという考えが広く根付いてしまったのかもしれません。でもまだ働けるなら働いたほうが本人にとっても幸せです。
農家だと60歳はバリバリの現役だったりします。農家は経営者なので、自分の体が本当に老いて自由に動かせなくなった時に引退します。年齢を理由に引退することはありません。
年齢で引退というのは、経営者にはありませんが、
誰かに雇われていると年齢で引退させられます。
人生百年時代なんて言われる現代です。もし年齢を理由に引退させられたとしても、
そのあとの長い人生を自分で自由にコントロールして、その時点からでもいいので経営者になったほうがよほど楽しいと思います。
その時に最低限の知識と能力はあるという状態であれば、まだ戦えます。
逆にない状態で始めると大変な痛手を被った上に再起不能になります。
そのため、早い段階で基礎を築くという意味でもこれらの経営者教育は必要と考えます。
サバイバルのための武器はわたした
公教育の質が落ちて、学校に行く意味なんてない、塾にいけない子供はかわいそうだ。
そんな風にまで言われはじめたのはいつからでしょうか。
しかしそれでも義務教育は存在します。
そもそも子供は時間を投資し、大人は税金によって公教育に投資しているのですから
その内容がもっと時代に即した実践的なものであっても良いと思うのです。
(この事実を、教師は子供たちにきちんと教えるべきです。これによって子供の側も社会の一員である自覚を持つことができます。与えられるだけの人間は、自分が何を支払っているのか気づくことができません)
それにこれほど変化のスピードが速い時代に
教師が子供に教えられることはそう多くありません。
だから
武器は渡した。あとはそれを自分でどうやって使うか考えて、どこを開拓するか見極めて、
その先は自力で生き残ってくれ。
というような最低限度のサバイバル術に限定し、ちゃんと使えるように子供のうちから訓練を積ませた方が良いと思うのです。
牧人を必要とするか弱い子羊はAIに淘汰されます。
自力で密林を切り開いていくような人間が必要なのです。
そう遠くない未来、今ある仕事の約半分はなくなってしまい、
AIに勝てない労働者は仕事を失い、選ばれし者たちだけが仕事にありつけるようになります。
そんな未来がほぼ確実に来ると言われています。
そしてこのままでは、あまりにも多くの人が選ばれない側になってしまいます。
ですが、選ばれし者でなくても、
自分で第三の道を作り出して勝手に仕事を創出できれば何の問題もありません。
これからの公教育は、そんな風に一人でも多く生き残れる人間を作ることを目的にするべきです。
教科書の改訂には時間がかかります。変えている間に社会はめまぐるしく変わってしまいます。だから、公教育は答えを何も教えなくていい。用意しなくていいんです。
用意している間に時代遅れになってしまうからです。
だからこれからは、一人一人が自分で考えて、答えられるように、最低限の武器を与え
自分で学び続け、問題を解決し続けられるような人間を一人でも多く作ることを目的にするような、
そんなサバイバル術を教える方向に変わっていくべきではないかと思います。
もし子供の頃から経営者になるための教育を受けることができれば、小さくチャレンジして小さく失敗することができます。だからそれでいいんです。
はやくはじめ、早く失敗させ、そして大人になったころには慣れている。
そんな状態になるのが理想です。
そうすれば自分で色々な事業を起こすことができます。
そしてこれは従来の教育を受けた自分が子供の頃に受けたかった教育です。
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