優生思想と尊厳死 混ぜるな危険

考え方

こんにちは、蒼生です。

ALS患者を治療を担当していない医師が殺したというセンセーショナルな事件が起こり、さらにその医師が「高齢者を枯らす技術」等というタイトルのブログを書いていて、その中の優生思想的な考え方が大変な物議をかもしています。

この問題に関して、二つの視点から様々な意見がぶつかり合っています。

《SNSで接点》100万円で京都ALS患者殺害 容疑者40代医師はペンネームで「高齢者を『枯らす』技術」執筆(文春オンライン) - Yahoo!ニュース
 7月23日、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性を殺害したとして、宮城県と東京都の医師2人が嘱託殺人の疑いで逮捕された。

つまり

優生思想の是非(個人の尊厳を無視した価値観)と

尊厳死(個人の尊厳を重視した価値観)

についての立場です。

しかし本来これは全く違うレベルの話で、本来なら別々に論じられるべきことです。

何故なら、優生思想は個人の尊厳を完全否定する立場で、それは例えばナチスの障碍者の殺戮に代表されるもので、尊厳死はその逆だからです。

まず尊厳死については日本では認められていません。

しかし海外では認められている場合も多く、その場合患者には何回も間をあけて意志確認をして、一時の気分やうつ状態で決めたものではなく、しっかりと死と向き合ってその意志を持っていることを確認していきます。

これは個人の尊厳を重んじる立場です。

私は尊厳死が否定されているのは法律上の不備であると考えるので、きちんとした手続きやルールを定めた上でその法律を整備するのは様々な患者及び家族や医療従事者にとって必要なことと考えます。

何故なら、死は単に生という物語の終わりというだけではない、

生きることと同程度に大切な事だからです。

優生思想とは

優生思想はナチスドイツや戦前の日本帝国などが持っていた思想とされていますが、実は昔は世界的に広く受け入れられていた思想のようです。

アメリカにもイギリスにもあったようです。当時のムーブメントというか、こういう思想がないと帝国主義なんてできないので、その時代のもっともポピュラーな思想の一つだったのでしょう。

優生思想 優生学とは,「人類の遺伝的素質を改善することを目的とし,悪質の遺伝的形質を淘汰し,優良なものを保存することを研究する学問」である(『広辞苑 第6版』岩波書店,2008)。

遺伝学的に言うと、遺伝レベルでは人間は一人残らず何かしら欠陥があるそうです。

そしてこれは前回の「美とは何か」に共通する問題なのですが、

人間は一体何がTrew/Falseか分からないのです。

分からないのに一方的に決めようとするのが優生思想です。

ある遺伝子が良いとかある遺伝子が悪いとか、本当にそれは普遍的・妥当的な判断なのか?

たぶん誰も答えられないんじゃないかと思うのです。

何故なら、人間はあまりにも不完全で弱いからです。人間にはまだ分からない自然の計画とでもいうべきものがあるかもしれず、それが見えない状態で遺伝子を操作する恐れがあるため、人間の遺伝子操作(デザイナーズベイビー)は現段階でも可能ですが強く規制されています。

姥捨て山

日本の昔話に姥捨て山という伝説があります。

働けなくなった老婆を山に置き去りにして殺すことで、その食い扶持を減らしてちゃんと働ける若者に食物を分け与える。という内容の伝説ですが、私は伝説ではなく実際に子供や老人や病人に対してそのようなことを広く行っていたのだろうと思っています。

狩猟採集民族は、発達不良になりそうな子供や年を取った人間を後ろから襲って殺害する(それによって食料を無駄にしない)ということを普通に行っているそうです。

(発達不良ではなくても女児の場合は数が多すぎると生まれた時点で生き埋めにして人口が増えないようにするそうです。男にくらべ働けないからという理由だそうです)

それは(食料などの)資源には限りがあるため、限られたパイをどのように分けるかという難問に対して、そのように食い扶持を減らすというシンプルな選択の結果だそうです。

あとは大人のいう事を聞かない子供もすぐに殺すそうです。狩猟採集はチームワークなのでそれができない、社会性がない人間はダメだという事らしいです。(たぶん自分狩猟採集民に生まれてたらすぐに殺されてたな)

パイ(資源)は限られている。

という感覚、もしくはそのような制限があると人間はこのような選択を自然にとるようになるのだろうと思います。

(今回の嘱託殺人を行った医師の老人を枯らす技術なる考え方は、姥捨て山に近い)

今あげた例に限らず、多くのエンタメ作品ではこのようなモチーフが広く頻繁に使われています。限られたパイをめぐって殺しあうというよくある内容です。エンタメ世界では映画でも、漫画でも、アニメでも、とても人気のあるテーマなので、このテーマに共感する人が多いことがわかります。

姥捨て山で老婆を捨てに行くのは貧しい農家であって、裕福な地主ではありません。狩猟採集民は得られる食料に限りがあるので人口を制限しようとしますが、農耕によって食料の生産管理ができる場所では、人口が増えたらそれに応じて穀物生産量を増やそうとします。

行動には何かしらの理由があります。

善悪ではなく、まず理由に着目しなければならないと思います。

個人や時代の特殊な問題や思想として片づけるにはこの問題はあまりに多くの国や時代で見られるものです。

パイは限られている。という不安、もしくは事実がそのような行動を引き起こすのではないかと考えた方が対策は取りやすいのではないかと思います。

優生思想の限界

戦国の世が終わり、江戸幕府になった後も日本社会は戦国の価値観をひきずっていたそうです。それはシンプルに肉体的に強い者が勝ち、病人や老人は道端に放置され顧みられないというありさまだったそうです。

その戦国的な日本の価値観が劇的に変わったのは、

犬将軍で有名な徳川綱吉の時代に「生類憐みの令」を出して、むやみやたらに命を奪わないようにという強制的な命令が広くいきわたったからのようです。

綱吉の母親はお玉という女性で「玉の輿」の元になった女性です。彼女はもとをたどれば八百屋の娘です。綱吉と生類憐みの令にはお玉の影響が強くでていると言われています。

あらゆる生命に慈悲をもって接するようにという

生類憐みの令は戦国マインドを強制終了させました。

それにより生き物をむやみに殺してはならず、子供にも病人にも動物にも生類としての憐れみをかけて大切にするようにという、今につづく福祉国家的な価値観がはぐくまれていった、とされています。

(動物への過剰な扱いは官僚の忖度がエスカレートしていった結果だったとも)

優生思想について考えるとき、その思想の不完全さが私には気になります。

人間の、その時代の認知の限界に基づいて、優れているか否かを決めた場合、

その時代の一般的な優生を後の世代が超えることができなくなります。何故なら劣等として排除されてしまうからです。

ダーウィンの進化論では、生き残るのは優れている者ではなく適応したものです。

自然はおそらくあらゆる可能性を考えて様々な遺伝子を作り出しています。つまり人間が考える意味での無駄はないはずなのです。

人間の認知には限界があることを優生思想の持主はおそらく忘れているのです。

生類憐みの令と、現在もっとも一般的になった福祉的な価値観は優生思想とは異なります。

優生思想の持主は、おそらく生類憐みの令や福祉国家的人権意識を感情的善悪に基づく間違った判断だと切って捨てるでしょう。

しかし私は

優生思想こそが近視眼的であり、

個々の生存権を保護する決定の方が長期的に見て(人類全体にとって)戦略的に正しいもの

と考えます。

何故なら、一人の認知には限界があるからです。

文明の発達には前の世代を超えるものが必ず必要で、それはその時代の価値観からすると劣ったものである可能性さえあります。

ですが劣っているか優れているかを人間は自然と同レベルには判断できません

あらゆる生命の生存権を保障することは人類全体で考えたときには

正しくリスク分散されていると考えます。

そしてそれをさらに補強する価値観として人権はあると考えます。

個人の可能性の追求・個人の幸福追求は、それ自体が人類全体にとって正しいリスク分散になっています。

Aの人間は気づけない事をBが気づくことができるなら、

それは人類全体の視野がその分広がっていることに等しいからです。

(優生思想は科学で淘汰されるべき。

人権至上主義や感情的な価値観をもとに優生思想の持主を非難しても永遠に平行線をたどります。彼らはエモーショナルな価値観を唾棄すべきものと考えるからです。優生思想が世紀を超えて人々の中に生き続けているのは、人間の深い意識の中にそうした感覚があるからで、分かりやすい形で先天的に優れたものを生かし、劣ったものを殺し、または排除するというのは、とても受け入れやすい価値観の一つなのだろうと思います。事実無数のエンタメ作品を通して多くの人がそのテーマを受け入れて愛好し広く支持されています。だから感情的になって論駁しようとしても平行線をたどり決して決着はつかないのではないかと思います。

一番いいのは、科学の領域からこの優生思想を完全に否定する分かりやすい考え方を広く知らしめることです。そうすれば彼らはあっさり捨てるはずです。

え?まだ天動説信じてるの?ってレベルで)

ホーキング博士

ALS患者として世界的にもっとも有名なのは、ホーキング博士です。

ALSは筋肉を動かせという脳からの指令がうまく伝わらなくなる病気で、頭脳の動きはそのままに、体がどんどん動かなり、最終的に呼吸も難しくなり呼吸器をつける必要があるという病気なのだそうです。

(映画もあるのでぜひ見てください)

今回亡くなった方と同じ病気です。

ホーキング博士はALSという難病と闘いながらも、宇宙の神秘を解き明かすような大発見を行いました。

ホーキング博士の偉業を否定できる人はいません

 

優生思想者はALSやそのほかの難病と闘う患者を、自分たちに比べ劣っていると考えます。

そうした思想的土台をもとに死んだほうがいいとして起こされたのが

ナチスの障碍者殺戮や、やまゆり園のような凄惨な事件です。

彼らの生命という可能性を奪った場合、優生思想者は人類が持っていたはずの可能性すらも奪っていますがそれにすら気づいていません。

優生思想者は上記のような理由から、人類に貢献しているように見えて

実はもっとも人類の可能性を奪っている思想であるという事です。

尊厳死

優生思想は個人の尊厳を否定する立場ですが

尊厳死は個人の尊厳を最も重視する立場です。

私は本当に死にたいという状況がまだわかりません。

私は子供の頃から死にたくなるたびに、その感情の出どころと状態を徹底的に分析してきました。

その度に、死にたいという感情は生きたいという感情の裏返しであるという風にしか結論できなかったのです。だからまだ生きてるんですが。

死にたいというのは、こうあってほしいという状況と現実がひどく乖離している状態のときに、その差を自分では埋められないと考えたときに生まれやすい感情のようです。

だから現状の把握や改善方法のリストアップ、そもそも何も期待しないなどの方法によってその自殺願望は止まります。

自殺願望は、思考の偏りという認知の問題がかなり大きいのです。

けれどほとんどの人はそれが分かりません。

だからむかし自殺志願者の話が出たときに「死にたい人は生きたい人だ」と言ったら、その場にいた全員が笑いながら「そうそう、本当は死ぬ勇気なんかないんだよ」と言っていました。

たぶん死に直面したことのない人たちにとっては、そんなものです。

彼らにはこの問題の深さ自体が分かりません。

そして最初に、まだ私は本当に死にたいという状況が分からない、と書いたように

これは私のような自分の力でいくらでも変えていける「肉体的、能力的な可能性が制限されていない人間」の場合のケースです。

尊厳死・安楽死が議論されているのは、難病患者やがんの苦痛と戦うような人々の場合です。

死ぬことは生きる事と同程度に重いものです。

私は生きる事は学ぶことだと思っているので死なずに生きていますが

死を自ら望むような環境になったとき、

例えば海外の例のように期間をあけて死を望むか繰り返し尋ねても死を選び続けるという場合、私にはうかがい知れないような何かがあるのではないかと思うのです。

であれば、生きるという決意と同程度に死ぬという決意があってもよいのではないかと思います。

もしそれを自分で決意しても実行できない場合、医師または家族がそれを行った場合、現在の日本では罪に問われてしまいます。これはあまりに負担が大きい。

だから法律の不備だと思うのです。

しかしまだ、私は本気で死のうと思ったことがないので

彼らの決意の重さはまだ分かりません。

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