新芸術論④感情の多様性

芸術カテゴリー

こんにちは蒼生です。

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前回は芸術とテクノロジーについて書きました。

今回は社会との関係について書きます。

現実は 感情→思考→行動→習慣… の順で変わっていく

優れた芸術作品というのは、必ず強い感情体験を引き起こすものです。

(もちろん好みはある。ベートーヴェンの名曲を聴いてもダヴィンチの名画を見ても何も感じない人は確かにいる。でも彼らは別の何かで強く心を動かされるはずだ)

基本的に 感情→思考→行動→習慣・・・ の順で現実は変わっていきます。

なので、強く感情を揺り動かすことができたときは変化のスタートを切ることができたということになります。

もちろん、感情は一番最初の段階なのでその次の思考にまで発展させられるかどうかは完全に作品の手を離れた問題です。

ですが感情をもとに思考を深めて得た答えを自分の行動に落とし込み、さらに習慣化させ、続けることができれば現実は変わっていきます。そこまで持続できるかどうかは個人の努力の問題になってきますが、そのリターンはとても大きなものです。

特に音楽のような芸術作品の場合、何度も再生することができるのでそれは比較的たやすいのではないかと思います。

確かに、聞いてよかった。スカッとした。というのも一種の効果なのですが

何故そう感じたのかまで深堀できればその次に発展させることができます。

私はクラシック音楽ばかり聴いてJPOPは一切聞かないので、そういうのの聞き方は正直分かりませんが、

歌詞に感動したとか歌詞で選ぶという意見はよく聞きます。であれば歌詞という要素にまで感動の原因を特定できているのですから、もう一歩進んで「なぜ?」と深堀できれば何かが変わるかもしれません。

感情のパレット

感情の種類には様々なものがあります。

当然、喜怒哀楽だけでは分類しきれない、様々な感情があり、芸術作品はそれらを苦心して表現してきました。

それらの中のあるものは「驚愕」を生み出しています。

現代アートなどが特にそれを目的としているように見えます。

最初はなんだか分からないのに、分かった瞬間、感情的に強くゆさぶられるという体験をすることができます。

それはパッと見ても分からないので、見る者に積極的な態度を求めてきます。

まず分かろうとする。でも分からないので次に考えてみる、そして考えて分かった瞬間、その答えはその人の中で応用のきく武器になります。

感情の多様性は盲点を減らす

人間にはどんな人にも盲点があります。

また、感情の状態によっても盲点は発生します

たとえば誰かに腹を立てているときはそこに焦点があっているのでその周辺に全く注意が向かなくなります。

感情的視野狭窄におちいっているので、思考も自ずから狭められていきます。

盲点が少ないと良い理由は、それだけ思考が自由になるからです。

そしてそれは人によってはイノベーションにつながります。

何故なら、それまで見えなかった可能性に気づけるからです。

芸術に造詣が深いイノベーターやビジネスマンが何故、革命的なアイデアを思いつくのか、それは自らの中にアーティスト的視点があるからです。

芸術家自体は一般的に言われる意味でのイノベーションは起こしません。イノベーションは様々な技術やサービスとそのアイデアがセットになったときに化学反応のように現実を変えていく行為だからです。

芸術および哲学は内面に焦点をあてるものです。だから現実は変えませんが現実を変える前段階としてそのアイデアを生み出すための土壌整備を行うことができます。

日本では(現実を変えられないので)芸術と哲学を非常に軽視している風潮があるように思います。

芸術をただの感情体験で終わらせ、哲学を知識で終わらせるのは、その人の考え方が浅くて現実にまで結び付けられていないからです。

もし、本当に何かを変えたいと思ったら、外を変えようとするのではなく

内面を変えるのが実は一番の近道だったりします。

感情の多様性を認める社会の中でしか芸術は育たない

感情のパレットは常に一定ではありません。

ある状態(例・怒り)では赤系しか使えずある状態(例・悲しみ)では青系しか使えなくなったりします。

そして社会もそのように限られた色しか使えない状態におちいることがあります。

人間は緊張しているときは全身の筋肉に力が入り、危険にそなえようとします。危険にそなえているときは、緊張をゆるめて弛緩するような要素を一切受け付けなくなります。

例えば笑いと涙はストレスを軽減させるものとして強い効果が認められていますが、危険に備えている状態の人はその危険を緩めてはならないと判断するので、それらの弛緩要素を不謹慎だと言って排斥しようとします。

個人の場合でも「今はそんな気分じゃない」という事はしばしば起こりますが

同様のことが社会全体でも起こります。コロナショックはまさにそのような状態です。

社会がある不安や危険にそなえている状態では、感情のパレットを制限しようとする力が働きます。

危険への備えが強く求められる有事であればあるほど感情のパレットは制限されていきます。

たとえば「疑問」は特に強く排斥される要素です。

言論の自由があっても、その「疑問」を認めた瞬間に仮想的に対する社会的結束がゆらいだり、備えがゆるんだりする可能性があるからです。

疑問に限らず、非常事態になるとある種の感情が社会的に許容されなくなり、時には存在すら認められず、抹殺されたりします。

だから表現の自由はいつも一番弱い立場なのです。

それでも、感情のパレットを制限しようとする動きに対して果敢に挑む表現者は常に存在します。

感情のパレットが制限された状態というのは盲点が多い状態であり、

誤った、極端な、衝動的判断を下す危険が高まっているということに他なりません。

よく、表現者に対してその分をわきまえろ(社会的に感情のパレットを制限しようとする動きに対して従順に従え)という罵声をなげつける人がいます。

でも彼らの認識の方が土台から間違っているのです。

芸術が感情を揺り動かすものであり、その結果内面の土壌を整備することである以上

彼らはもっとも芸術家らしいことをしているのです。

私は、平和は(様々な人にとって)もっとも必要な基礎インフラだと思っています。

平和があれば、自由があり、その中であらゆる可能性を追求し、個人の幸福を追い求めることが可能だからです。

自由が生み出す価値

日本は自由が保障された社会ではありますが同時に

とても同調圧力が高い社会でもあります。

つまり自由の余地はあるものの個人が自ら望んで自由を捨て、善悪からではなく所属および承認を目的として多数におもねりやすい社会だということです。

(これが悪い方に働くと凡庸なる悪。巨悪を行うのは凡庸なる悪である。自分では何も考えず上に文句を言わない人間が結果的に巨悪を遂行する)

空気をあえて読まない人間にとっては同調圧力など生臭い空気くらいでしょうが

ほとんどの人はその範囲から出ると生きていけないと思って収まることを選択します。

芸術家に関しては、同調圧力には反抗する気概が必要なのかもしれません。

先述したように、感情が制限されている状態とは、社会が硬直している状態なのです。

彼らは良いことだと思っていても、それは全体として悪い方向へ向かっている合図である可能性があります。

その中で、それは馬ではありません。鹿です。と言うのはただ事ではありません。

秦の趙高の時代であれば間違いなく殺されます。

でも自由がある時代、自由が保障されている国では、

それが権利の上では認められています。社会的に排斥されるリスクはもちろんありますが、一石を投じることで社会に柔軟性を取り戻すことができるかもしれません。

自由は、様々な意見を生み出すことを認め、それを様々な立場の人が見聞きして考えることができる、すくなくとも許容するものです。

それは結果的に、レミングの死の行進のような集団破滅から逃れるためのリスク対策になります。

欠けている感情をフィクションで埋める

子供の頃不思議で仕方なかったことがあります。

何故ティーンエイジャー向けの作品(たとえば漫画)なのに必然性のない残酷さ、残虐さを頻繁に表現するのか。

それは決してストーリー的にも絵的にも全く必然性がない。ただ過激で過剰にするだけの要素で、例えるなら七味唐辛子とコショウをかけまくった野菜炒めみたいな感じです。

ですがそういうのは沢山沢山ありました。つまり市場的にそういうものが求められていたということです。だから作家個人の趣味という以上の何かがあるのではないかというのは子供ながらに気づきました。でも同時に何故なのか分からず不思議で仕方なかったのです。

でも大人になってなんとなく、なぜ残虐なものを見たい人達が多いのかわかるようになりました。

人間は自分が経験できなかったものをフィクションを通して経験したいと思っています。人間の脳はリアルとフィクションを区別できないと言われています。

フィクションとはいえ残虐な表現というのは、マズローの五段階欲求のうち、生理的欲求や安全の欲求という下層の基本的な欲求を刺激する要素です。

それはもっとも基本的で誰にでもあるものなので、それが脅かされる状態を人は恐れ、そこからの脱却を強く求めます。生理的欲求と安全の欲求は子供にもあります。それが生きるために不可欠なものだからです。

けれど日本は非常に豊かで治安の良い国です。滅多なことでは生存の危機を感じられないように社会システム全体が設計されています。

それ故、実際に一生生存に関わるような危険を経験することなく生きている人が非常に沢山いるのです。だからこそ人生の中で欠けてしまった経験をフィクションを通して知りたいという欲求が働くのではないか、そう考えるようになりました。

というのも、死や暴力やその他の残酷さを直に経験する機会があった人にとっては、そういう表現は不快極まりないものだからです。特に少年漫画などでエンタメとして表現される必然性のない無駄で浅い残酷さには子供の頃激しい嫌悪を感じました。

知っていて表現する作家と知らずに表現する作家との間には雲泥の差があります。

(知っていて表現する作家は慎重で真実味があります)

でもそういうものを全く経験できなかった人達にとってはそれがたまらなく面白いのです。彼らは自分の人生で経験できなかったものをフィクションを通して学ぼうとしている。そう思うようになって何故あえて残酷な表現をエンタメの中で頻繁に行う作家が多いのかなんとなく理解できるようになりました。

それは日本が平和でいい国だからなのかもしれません。

恐怖・憎悪なども感情のパレットの中にあります。

それは通常望まれない経験です。不幸だと言われて忌避されます。

でも実はその感情は別の何かと対になっているのです。闇の中でなければ光の明るさは分かりません。分からないというより気づきません。

生か死か、苦悩の中で耐えなければ得られない答えがあります。

様々な教えがあっても、悟りを求めて修行する僧侶がたくさんいるのを見ると、究極的には経験に勝る知恵はないのだと思いますが、

それでもフィクションがそうした体験を補佐する役割があるのだとすれば

それは人生の負担を軽くしてくれることになります。

となりの変人

芸術家には変人が多いそうです。

でも、それは変だと判断する誰かの目を基準にしてのものです。つまり絶対的な判断ではないのです。

自分も子供の頃から散々変だと言われてきました。

人間は皆自分が基準なのでその変の意味が理解できず「なにが?」といつも思っていました。

バイトをしたときに、君は変わってる。人は分からないものが怖いんだ。と説明してくれた上司がいてようやく自分を変呼ばわりする人の真意がわかりました。

自分は社会的ルールは守るし比較的穏やかなほうなので割と常識人なのではと思っています。子供の頃に興味がなくても技術として話し方を学んでおかないとまずいなと思ったので話術の本を買ってきて勉強もしたので、コミュニケーション能力も最低限はあるほうですし、変と表現される要素が普通に考えるとないのです。

それでも私が子供の頃から変だと言われてきたのは、どうも感性において思考において彼らが許容できないものがあるらしいからだとその言葉でわかりました。

彼らが変だと言っていたのは

他人が注意を払わないものに注意を向け、他人が考えないことを考えて答えをだすのを、普通の人は異様だと思うらしいのです。それがある人々の理解能力を超えてしまうので怖いという反応を生み出してしまうらしいことがわかりました。

人間は社会的動物なので彼らの反応は理解できます。

彼らの怖いとは、彼らの理解能力をこえて共感できないことが原因で、だからといってそれを埋めることもできないので、その結果導き出された反応が、

共感できないものは敵である、怖い。というごく自然な動物的反応なのです。

同じものに興味をもち、同じようなことを考え、同じように行動する存在は予測可能なので味方と認定し敵ではない存在と考えることができます。

興味、思考、行動の一致が味方認定をするために必要だと多くの人は考えるようです。

だからこのどれかが欠けていると相手は変だ(自分とは違う)と感じ、理解できないものとして敵認定する確率があがるようです。

彼らは、敵と味方を峻別するために頻繁に共感と同調を求めてきます。精神的に自立していない場合は特にそうなります。自立していない場合は他人の存在に少なからず依存しているので相手が自分と同じかどうかが非常に重要な問題になってくるからです。

子供のいじめなどは特にそうです。だからちょっとの差でいじめが発生します。

海外では宗教や民族や人種が違うのが当たり前なので、同じであることを問題とせず違いがある、つまり個性を大事にするそうです。

けれど日本では均一性が一つの価値になっています。学校も同じである事を様々な校則で強要してくるので、違うことは悪であるという価値観が様々な形で現れるのは致し方ないように思います。だって、それを子供のころから叩き込んでいくのですから当然の結果です。

人間は生来、差異に敏感にできています。つまりそれを強化する方向の教育をしているということです。

アンドロイドを気持ち悪いと感じるのは、それが自然な表情や声音で動作しないからだそうです。同じであることは安心して付き合える仲間の証なのです。

でも違いがあるというのは進化の過程では常にリスク分散の役割を果たしてきました。

また、民主国家においては個人の尊重と個人の幸福追求は基本的な考え方です。

それに基づいて多様性を認める考え方がもっと広く浸透し、違うことはよい事であるという風に色々な人が考えられるようになれば、また景色は変わるかもしれません。

普通とはなにか

普通というのはある集団の中で共有されている許容範囲のことです。

観念的なもので、知覚できません。当人たちにも説明が出来ません。だから空気を読めなんて言葉が当たり前のように飛び出します。

空気は吸うものだと思っていました。

同調圧力とはこの範囲の中で動くように要請する圧力のことです。

しかし自由とは、他社に不利益を与えない限りにおいては自己の責任の負える範囲において自由であるという可能性のことです。

非常に広いものなので、当然、ある集団の中でまかり通る普通のイメージはいとも簡単に超えてしまいます。

芸術家にみとめられているのは、当然

自由の範囲内での活動であり

おそらくもっとも革新的な人々においては

自由の中の過疎的な部分です。普通からはみ出した部分。人が気付かず見向きもしない部分です。そこに彼らの表現の種があります。

私はおそらく表現においては決して革新的ではありません。むしろかなり保守的だと思います。

それは人間の本性は紀元前から変わらず、感情において車輪の再発明をずっとしつづけていると思っているからです。それに革新的方法が、ある芸術目的の達成のために必要かといえばそうとは決して思わないからです。

だから私はどちらかといえば保守側だろうと思います。

しかし革新側の考え方も分かります。

彼らはその時代の自由の許容する範囲でぎりぎりの表現を攻め続けています。

それは開拓団のような存在です。

それは新大陸発見のあと、開拓団によってアメリカの地図の西側がどんどん地図に書き加えられていくような感じです。

保守派は彼らが開拓した跡地で農耕を営んでいます。そしてそこで環境を良くしようと努力しています。

たまにベートーヴェンのような開拓者でありながら古きを温めて磨くような人もいますが、だいたいどちらかに分かれてしまうようです。

彼らはどちらかになろうとしているのではなく、彼らの求める表現の結果、そういう風になってしまっただけだ。

いずれにせよ、自由の許容する範囲において我々は自由なのである。

自由が狭まるようなことは表現の息の根を止めることにつながる。

特に開拓側の。

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